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2019-11

政治とカネについて

「政治とカネ」の関係は一向に変化しそうにない。
何が問題なのか明確にされていないし、明確にしていこうという真剣さが公的な発言をする人にない。

民主主義とはどのようなものが理想で、そのためにどういうお金が必要なのか。このへんをはっきりしていかないとならない。

もし絶対にあってはならないカネが流通するならば、それを流通させない法律や厳しい罰則を設けることは可能なはずだ。しかし、現実に着手されていない。

私たちは誰が「政治とカネ」について真剣に考えているのか見極めなければならない。


順位は一見わかりやすいが?

日本は、温暖化ガス削減において世界のトップを目指す目標を立てたらしく、その実現のために各種の政策を展開する模様だ。

しかし、私は何か釈然としない。

環境破壊の背景はもっと複雑で深刻だ。先進国が自由競争のもとに人間の欲を追求してきた結果が現在だ。そこのところにもっと言及すべきではないか。

世界のトップになることが真の目標ではないだろう。地球的環境を守るために私たちは暮らしの根本を改めなければならない。そういう反省があってそこに人々の行動が伴うものだろう。

日本の社会は順位競争や他者(国)との比較など相対的なものには反応し易く行動し易いが、絶対的なものにはことごとく弱いような気がする。

島国の小国日本。
オリジナリティーが求められていると思う。

議員としての「個」を持て

民主党が政権をとった。

新聞では
「新人議員の教育。マスコミ対応など」
「小泉チルドレンのてつを踏むな」
という旨のことが書かれていた。

しかし、ここにはどうも相変わらずの
感がある。政治に関する議員の行動
方針とでもいおうか。

国民はよりよい社会になるために
議員・政党を選択したのだ。

議員は信念をもって行動すべきだ。
その信念がもし国民の望みと違うもので
あればそれは仕方がない。
しかし、信念に基づいて行動してくれ
なければ、一体国民はその議員に
何を託したことになるのだろうか。

私は政治の世界に
「経験者」「未経験者」による格差は
あってはならないと思っている。

「未経験者」と言われる方はある部分
で「経験者」なのだから。または、
「経験してほしい」と思われる方なのだ
から。そうして国民が選んだのだ。

政治の経験者が
勝手に格差をつくり、それが様々な腐敗を
増長していくのだ。
それは議員だけではない。
「マスコミ」もだ。

そして。
政党で政策議論を交わすのは良いが、
「ありき」でやらない仕組みをつくって
ほしい。
A政党議員でも、B政党と議論の結果
B政党の案に賛同することもあり、
とするのだ。
それが
「議論」だ。
それを認める政党や政治になって
ほしい。

最初から「ありき」の中で
よくも議場で起きていられる
ものだ。私ならそうだ。

いずれにせよ、年齢がいくつだとうろ、
議員は選んでもらった責任と誇りに
かけて、信念を貫いて行動してほしい。
「?」と思いながら政党や悪い意味での
「経験者」に従っていては私たちが
投票した意味はないのだ。

「信念」を貫けば、議員を辞めなくては
ならないことになるかもしれない。
しかし、そんなことに臆するな!
正しい信念ならば、国民はそれをいつの日か
必ず指示するはずだ。

今回の件で相変わらずくだらない報道を
しているマスコミについては別途述べてみたい。
こんなマスコミを見捨てるか、それとも
色されるか。国民の肝心なところだ。


自民党と組織

衆議院選挙で政権の座を降りた自民党。

ネットやマスコミで見聞きする限り、真に反省している
と思われる人のコメントを聞かない。

今回の結果が起きたのは「年金問題」だ。私はそう思う。
高齢化社会の日本においてあまりにもひどい話だからだ。
しかし、ここに言及するところがない。

ともかく組織は大きくなっていくに従い
各種のほころびや問題を帯びてくるものだ。
そうしたことを乗り越えていく力はなんだろうか?
それはまさに共通の心だろう。言い換えれば組織の
使命感だ。

自民党にはこのへんが無かったのだろう。いや、かつて
はあったが時代の流れで新たなものを見いだせなかった
のだ。

皆、昔の栄華を振り返り、その成功手法を繰り返すのである。
地位にしがみつく老人達、政治家達。

若返りとかいろいろあるが、真に反省するならば
出直しも十分可能だろう。たとえ老人たちでも。
それが人間の価値あるところだ。

違うほうから見る

今日、いつも通る駅前の一度も歩かなかった
道に寄り道した。

そこから駅前を見た。

その印象はいつもと全く違ったものだった。


最近、妻の帰りが遅く、家事(掃除、炊事)
を頻繁にやるようになった。
妻は主婦ではないが、主婦の気持ちが少し
わかったような気がする。
孤独であり、大変である。


聞くのとやるのとでは大違いだ。
自分の気持ちが。


何でも経験できればいいが、
そういかないこともある。
そんな時は誰しも想像するわけであるが、
そういう想像の時は前からだけでなく
他の方向からも想像すべきだ。

そんなことを駅の広場で思った。

余暇

皆が笑顔で暮らせる社会。
誰もが願うことだろう。

これからの日本。この願いに向かって邁進していきたい。

ひとつのテーマに
「平等」がある。

日本における最小限度の「平等」を築き上げることだ。

そのために最優先しなければならないことは
弱者の救済に他ならないと思う。
それが政治の一番の使命であると思う。

誰もが学び、仕事をし、衣食住余(余は余暇)に
困らないようにすることだ。
ごくあたりまえのことなのである。
しかし、余暇に関して真剣に考えられてきただろうか?

例えば家族。
毎日、皆でいっしょに食事をすることは大切なことだが、
そんなことができているだろうか。

大きな屋敷に住むものもいれば、住むところがない人も
いる。
政治は後者のためにあるのであり前者のためにあるのでは
ない。

大きな屋敷に住み続けたい人は政治に頼らず頑張るか、
住み続けることを止めればよい。

「余暇」という表現が適当でないならば別の言葉でも
よい。
日本の社会に大きく欠けているのは「余暇」だと
私は思う。

人として必要なことは、人同士支え合えることである。
それは「○○支援」組織が豊富にあれば良いということではない。
「余暇」を通じて人同士が交わりコミュニケーションし力を
出し合うことが大切なのである。

戦後、企業優先の社会だったのではないか?
そこを何度も何度も繰り返し反省することだ。
豊かになったのは企業のおかげか?
違うだろ!
企業でなく「人」なのだ。

「人」に必要なことは何だ?
そこを今改めて見てほしい。







先進国???

地球温暖化、核不拡散、経済問題等々について
世界で議論されている。
サミットとか国連とかそういう場で。
先進国主導で。

地球温暖化で所謂先進国でない新興国から
「温暖化になったのは先進国の責任であるから、
もっと削減を大きくすべきだ」
との意見があり、先進国と折り合いが付かない。

新興国の意見は最もであろう。

世界・地球はどこかで成り立っているわけではない。
それぞれが機能してやってきた。
先進国の繁栄は先進国以外のうえになりたってきた。

世界・地球の各国・各人が平等でなければならない。
その理想に向かわなければならない。理想とは
単なる理想ではなく、向かわなければ理想にならない。

ところがどうだろうか。
先進国は自分たちを勝手に先進国と名乗り、
さも世界で共有したしような場を取り仕切る。

国連でさえ常任理事国などという見るところから
見れば全く納得のいかない組織なのだと思う。

今、世界・地球に共通する問題に取り組む時、
より多くの国の参加と議論が必要ではないのか。

食べることもできない人がいれば、
何百万ドルもお金をかけて無くても生きて行ける
ものを買う人がいる。
これはやはりどう考えてもおかしいのである。

先進国。自国で二酸化炭素を排出していなくても、
他国の排出に関わっていないのか?そのへんはきちっと
考えられているのだろうか?

これからは役割分担と平等へ向かう社会なんだ。
どこかの国が何かに秀でてイニシアチブを取ろう
としている間は温暖化問題は解決に向かわない
だろう。




減点主義

ある公務員のトップの言葉。
転勤の際の挨拶である。
「何事もなくて何よりです」
という旨のことだった。
これは私が知人から聞いた話だが。

「何事も」というのは所謂事件のことではない。
「問題」のことである。
このトップ、要するに減点が少なかったことを
自画自賛しているのである。

何か新たな取り組みをしようとすれば、
そこには数々の問題が生じる。成功すればいいが
失敗も当然ある。

失敗は減点される。
だから失敗しないようにする。
だから最終責任をおわないことを行うか、
失敗しないよう何もしないのである。

これで行政が良くなっていくのだろうか?


さて。
昨今、○○大臣辞任などの話が多々ある。
いずれも何かしらの不適当な行動による。
このことは当然なのであるが.........。

本来、成果で判断されるべきことがもっと
あるべきではないか。
「何かを行いこういう効果や道筋をつくった」
とか
「目標である○○を達成できなかった」
とかである。

マニュフェスト(政権公約)がいつのまにか
盛んである。
しかし、その公約を達成できなかったらどうするのか、
についてマニュフェストに記載はあるのだろうか?
100%とはいわない。失敗することもあるだろう。
60%でもいいと思う。そこをクリアできたかどうかが
もっともっと問われるべきだ。

失敗、問題、失態などをチェックすることはもちろん
重要なのであるが、もっと政策や実施した事項に関する
内容をチェックしなくてはならない。その結果によって
「辞任」する知事や政治家、行政トップがいても
いいのではないか。

通常は「選挙」がこの役割を果たしているのだろう。
市民がシビアにならない限り、政治は変わらない。
市民が減点主義に走れば、政治もそうなっていく。

自立力

今、日本に必要なのは
「自立力」だと思う。

現状を悲観しない、現状に甘んじない。
そんな自立力をつけ養うことだ。

実は教育の根本もこのへんが?である。

考えてみよう。

20世紀後半は何事も引かれたレールのうえに
なりたっていた。
「○○さえすれば」
というものがあったのだ。

社会をつくっていくこと=レールづくり
が大きかったのではないだろうか。
しかし、=レールづくり、ではなく
=レールをつくる力
なのではないだろうか。

情報通信の発達により変化していく
国際社会。

変化に対応する力、レールをつくる力
が大切なのだと思う。

この力が常にわき上がっていれば
なんとかなるさ、日本は。

だから、わきあがる力を止めてしまう
ようなことをカットしていく必要が
ある。
それは何だろうか?

実はまず自分自信の中にある。
誰かをどこかに要因を求めてもそこを
ずっと辿ると自分にたどり着くだろう。
そんな要因だから、お互いに責め合い
が続くだけなのだ。




国民、各自の責任と意思で

自民党が選挙で所謂タレント議員を候補にする。
理由は明快で、そのほうが当選する確率が高いと
考えるからだ。

このへんにとかく批判がおこる。

しかし、問題は有権者にある。

誰かに頼まれたりマスコミから聞いたり。どのような
情報を得ようと、最後は自分の責任と意思で
投票しなくてはならない。

結果的にタレント議員が選ばれたのであれば、
それが国民の選択なのである。

憲法改定に賛否があった。昨今は話題にあがってこないが。
9条を変えるべきでない=憲法を改定すべきでない、
という意見があるが、これは大きな間違いだと思う。

憲法を改定するにしても9条を変えなければいいわけだし、
むしろより良い9条にすればいい。
ところが、悪いものになってしまう、と改定反対者は
言う。
これは国民に対する信頼のなさの裏付けだと考える。
国民がある権力に流されてしまうことを危惧して
いるのである。

私たち日本人は
いっさいの武力を地球上から廃絶することを願う国民で
あるはずだ。そこのところさえ揺るぎなければ、
間違った選択はしないはずだ。

政治は国民にしっかり考えてもらうように
動いていくことだ。
何のための選挙なのか。


政権交代

衆議院選挙が近い。

政権交代の機運が高まってきた?
そのきっかけは「年金問題」である。
民主党はこのことを忘れてはならない。民主党が積極的に支持されている
わけではないのである。選択するところが他にないからなのである。

さて。
日本は今後どうあるべきなのか。

戦後、米国に追いつくことに邁進してきた。ひとことでいうとそういうことに
なるだろう。「自ら」という支点が欠けてきた。常に「米国は」といった
感じだった。

ある時、経済大国日本と呼ばれるようになった。先進国に追いつく、という
目標を達成したわけである。

しかし、目的がなかったのである。
私はそう考える。

だから、今、日本が混迷の状態にある。

国民は
今、再び、日本国憲法の前文を読み返し
ここに帰着することである。
心にこれを刻まなければならない。

そして何よりも政治をリードしていく人間は
これを死守していかなければならない。
それがないから今の日本になってしまったのだ。

「政権交代」とはそういうことなのだ。

そう思う。


====================================
日本国憲法前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。


日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

====================================





弱みにつけこまない

人は誰にも強いところ弱いところがある。
人に限らず組織もだ。

人も組織も他と何かしら関係を持つ。
その時、弱みにつけこまないことだ。

「何をあまっちょろいことを」という
感じを持たれている方もいらっしゃるだろう。

ただ、良い関係のために必要なことだと思う。

関係は相互理解、相互協力だ。
そこのところを努力することなしに進んでは
最後に何も残らないだろう。

弱いところをカバーしてあげるくらいの
強さを持とう。

2009 何が大切かを知る年

金融不安で経済不況に入った。

仕事がない。消費がない。

皆に仕事があって、何でも買えればハッピー。
と、いいたいところだが、本当にそうだろうか???

何でも買えるような状況が、地球温暖化を進めて
きたのではないか?
世界の悪い意味での格差を広げてきたのではないか?

そろそろ先進国は
「発展」の内容を考えなくてはならない。
儲かって高層ビルが建つことを喜ぶ時代は終わったのだ。
人間の欲は尽きないが、その欲に歯止めが必要な
時代だ。

弱肉強食と言われたって自然の摂理はバランスを
保つべく「欲」に限りがある。
「欲」が尽きないのは「人間」だけだろう。

どーする、人間。
「欲」を変えることもできるのが人間と信じる。




心に感じるものを伸ばす

今、某民間高校の講師に関わっている。

生徒の心に感じること。
そんなことが多くあればいいと思う。

ある講義の内容。
それが教室の30人に感じなくてもいい。
誰か一人に感じればいいと思う。

ある講義がAさんに、そしてある別の講義
がCさんに。
そういうことでいいと思う。

月並みな言い方だがひとりひとりの個性が
伸びること。
これからの日本にとって重要な事と思う。
もちろん日本のために個があるわけでも
ないが。世界のための個でもいい。

戦後、平均点の高い人が尊重される社会
で進んできたのではないかな。今、そのこ
とがかしこに歪みを出して来ていると思う。
見た目重視、体裁重視の社会が。

人間、一生懸命取り組めるものがあれば、
それを土台にいろんなことが成長、成熟
していくと思う。
取り組むものがないのだろうか。
そんなことはないはずだ。
取り組むものがあっても(潜在的にあっても)、
それを発揮し難い何かが日本の社会に
もったりと漂っているようでならない。

「心あらばやってみなはれ」
こうありたい。









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地球温暖化にはビジョンが必要

現実に進捗する地球温暖化。
「二酸化炭素何パーセント削減」
というような目標が国や会社やその他セクションで
掲げられている。

私にはどうもこれらの取り組みに
いまひとつ何かが欠けているようでならない、
と感じる。

他国のことはさておき日本に関して。

世界に対して外面を良くしようとする日本を
感じる。
環境技術でPRするという。技術立国日本
だった?から成り行き上、不思議は無いが。

しかし、今、自然から日本が世界が本当に
求められて
いるものは「削減技術」ではないと思う。
もっともっと根本的なことが求められていると
思う。


人間が欲を満足すべく開発が進んだ結果が
今なのである。このことを避けていて、削減
削減と叫んでいることは全体的な削減に繋がら
ないと考える。
いまだ、2次産業の売り上げ減を問題視して
いる。トヨタが売り上げ世界上位として
賞賛される時代は終わったと考えるべきだ。
一方で削減しながら一方で二酸化炭素をバラまく
事業が展開されている。


技術を持った国が世界を開発し、その代償として
地球環境が破壊された。
そして、開発は貧富の格差を生んだ。


今、世界はあるポリシーのもとに開発を進める
ことをしなければならない。
ここでいう開発とは従来イメージする土木や建設
ではない。
世界の貧富差をなくし地球環境をもとに戻すための
開発だ。


所謂、地球環境を破壊してきた先進国は、「開発」
の転換を図らなければならない。
そこを考えずして何がサミットだ。地球温暖化だ。
先進国だ。
削減技術を開発したって、一方で道路や住宅地を
つくるため木々を伐採していては何もならない。


交通や流通。その便利さを求めれば歯止めはない
だろう。

いろんなことが短縮された。
しかし、暮らす人の幸福感は増しただろうか。
増すどころか、減ってさえいるのではないか。


私にも何をどうしたらいいか明快なものは
いまのところない。
ただ、日本が自然環境において世界のリーダー
にならんとするならば、単に削減技術のみでなく、
開発のあり方について示していかなくては
ならないと思う。
一人当り二酸化炭素排出量を世界の上位にしな
くてはならない。今の状況では、ちゃんちゃら
おかしい実態である。


参考
http://www.jccca.org/index.php







人を「人」とは本当に漢字は良く描いたものだ。

支え合うという事。

人は自分以外の誰かに支えられ、また、誰かの支え
になっていたいと思うものだろう。
あたりまえのことだと思うが改めてそう思う。

昨今、様々な奇異な事件が起きている。
その根本的な要因にこのどちらかの
支えを失ったところが
あるのではないだろうか。


知識なんかくそくらえ

どんなに物知りな人でさえも、世の中知らないことのほうが
多いのである。

知識があることは良いことばかりではない。
あることによってかえって物事を間違った方向に導いている
ことも少なくない。

知識をつけるな、ということではない。
知識をつけても謙虚さを失ったら駄目になってしまうと
いうことである。

1+1=2
という知識を持ちつつ、
1+1は本当に2なのだろうか?
という疑問を持つことが大切だ。

アメリカの大統領の名前を知っていることよりも
アメリカを肌で感じていることのほうが大切だ。

信じられないエベレスト登頂

中国がオリンピックの聖火をエベレストの頂上に
持っていくことをイベントとしてやるという。

一体何を考えているのだろう。

相当のお金と人を使って達成に向かうのだろう。
自然まで使うことができると思っているのだろうか。

オリンピックは安全な場所で選手が人間として
持っている運動能力を純粋に競うところが魅力だ。
ところがそれを忘れ、このような危険をおかすイベ
ントに走る。

イベントが奇抜であればあるほど心配である。
安全とか公平さとかの根本的なところがなって
いないのではないかと勝手に危惧する。





オリンピックとは

日本の誇り

事故を起こしたイージス艦の艦長の
記者会見でのコメントをTVで聞いた。
「私に責任があると思います」

「思います」。
ここに日本が失ってきたものが
集約されているようでならない。

艦長は海にただ一つ浮かぶ船の最高
責任者だ。サッカーの監督が敗戦の
コメントでこのように結ぶだろうか?

重箱のすみをつつくと思われるだろう。
しかし、こうしたところに本人の
真意が現れる。新聞では「思います」
は記載されていなかったが。



日本の誇りは
「正々堂々」
だと私は思う。

言葉の解釈論をするつもりはない。

常に中身で勝負。
結果を率直に受け止め潔く負けを
認める。

ところが、昨今はこの正々堂々に
めったにお目にかからない。

目先の結果を出さんがための
行動がまかり通っている。
言い訳も多い。

技術の日本と言われてきた。
その根幹は正々堂々だと
思う。

私たちは
正々堂々を見抜けなければならない。
周囲の雰囲気などに惑わされたり
流されたりして本質的に大事な
事や人を失ってはならない。

政治に今求められているものも
同様だと思う。
正々堂々と行動する者が
それを持続できるようでなければ
ならない。本来、そのような環境
になっていくことが大切である。

家族の父が家族に何かあった場合
「私の責任です」などとそもそも
コメントしないだろう。父=責任
なのだから。
そういう意味で、組織の長たるもの
責任に対する自覚があまりにもなさ
すぎる人が多いと感じる。

そもそも「責任あるか、ないか」と
やっている時点で、その人には大し
た役割がなかったということなので
ある。

もちろん正々堂々は生半可なものか
らは生まれない。




オリンピックとは

あの5輪のマークは五大大陸を現すという。
スポーツを通して世界が友好することが
オリンピックの最も大切な意義だと思っている。

しかし、いつのまにか国と企業と個人の「利益」
に走っている。

記録は破られるためにある。
今、世界一だって、将来必ず破られるのだ。
記録を作ることよりもその時にどれだけベストを
尽くせるかが、大切ではないのか。

オリンピックの開催は世界で万遍なくやって
ほしいものだ。
参加国でお金を出し合って、開催国で開催
できるように協力するのだ。

こんな逸話がある。
メキシコオリンピックサッカーの3位決定戦。
地元メキシコ対日本だ。
日本が2-0とリードしている後半の終わり
ころ、地元の観客から「日本、日本」と
声援が起きたそうだ。
対戦相手の日本に対してだ。
全力で反則せずにプレーしている姿に観客が
感動したのである。
国を超えた人間同士の損得のない触れ合いだ。

もうす北京で開催される。
素敵な大会になることを願う。



思いやる気持ち

自分でも反省することは多々ある。

人を思いやる気持ち。
最近、これが随所でかけているようでならない。

自分の都合のみを優先する。
それでも、その都合に合わせてくれる人がいるから
あまり気にしなくなるのか?
情報化時代では、人との出会いの場も多い。
だから、希少な出会いに無頓着になるのだろうか?

私は仕事も同じだと思っている。
たとえなんと言われようが。
相手の気持ちも考えずに強引に進めたり
折衝したりする人が多い。
相手のことも考えてのことならいいのだが。
バランスの取れた強引な人にはなかなかめぐり
合わない。ほとんどが身勝手であり礼儀礼節に
ことを欠いている。

うわべだけのことも多い。

年齢や地位を超えて
人をひとりの人間として思いやることが
できる人。
とても難しいことなのかもしれない。
しかし、簡単なことでもある。
お互いに思いやりながら信頼関係をつくる。
これができれば強くて逞しくて素敵な社会に
なるはずだ。



個人を考える時代

個人を考える時代だと思う。

「○○会社の××さん」
と社会ではよく自己紹介する。

しかし、本当は
「××です。今は○○会社です」

私はこれが本来だと思う。


確かに○○会社でなければできないことが
沢山ある。しかし、最後は仕事も××にかかって
いるのではないか。


社会は肩書きを重んじる。であれば
その肩書きこそ「名前」なのではないだろうか。


会社には一般的に定年がある。
定年になったら○○はなくなるのだから。


私は個人とプライベートでも仕事でも
おつきあいしたい。
それが楽しいからだ。面白いからだ。
○○会社でなく、あくまで××なのだ。


話は変わるが、
「正社員になったほうがいい」という
言葉をよく聞く。
しかし、これは税金や年金を確保するための
理論にしか思えない。

正社員でない=いろいろ不利、損
というが
本当にそうなのだろうか。

私には偏見としか思えない。

個人を大切にし、それを複数でいろいろなところ
で生かして何が悪い?
問題は生かし方であって、正社員でなからでは
ない。

個人の勝手にしろというのではない。
個人を尊重できる社会は
個人の力を導きだし、それは良い社会を
つくる。

強い正義は弱い個人を支えるところに生まれる。

得体の知れない組織のせいにしていては
物事は良い方向に進まない。







協働について

行政と民間がいっしょに何かのプロジェクトを行う時、
「協働でやりましょう」というような話が出てくる。

協働することに相乗効果を期待しているわけである。

私も「協働」にチャレンジした経験はある。
その経験から言えること。
それは、生半可な気持ちでは取り組めないということである。

いっしょに議論をして協働をしているような気になるのである。

目的を常に共有し、その目的のために自己変革(組織や自分)
しなければ協働は成立しないと結論する。

自己変革なしに、既存のノウハウを結集して何か良いことが
できるかといえば、そんなことはいえない。
持っているノウハウも問われるが。
いずれにせよ取り組むプロジェクトはあくまで新たなものであり、
既存のノウハウは活かせても新たなノウハウを蓄積しなければ
ならないのだ。

自己変革のない協働は逆に弊害を生む。
自己の事情を優先するからだ。
協働に関わる組織や個人が皆このような状態であるとき、
妥協の産物ができあがる。
協働の中に「利用者」がいれば、まだ救われる可能性が
あるだろう。
しかし、大抵「利用者」はいない。
妥協の産物は利用者の心に響かない。

「協働」をするのであれば、
するにあたっての明確な約束事(ポリシーや方針)
を決めることである。大げさにいえば憲法である。



経験と冒険

経験は生かされるが時に邪魔をする。

人生とはなんだろうか。

心に無理を強いて何があるのだろう。

道を切り開かなければ生きていけない。

国会議員を全員替えることだ

昨今の議員が関係する団体の経理問題。
ミスなどまずありえない。
故意に行っているとしか思えない。

今の議員という議員に正義はあるのだろうか。
皆、裏と表ばかりだ。

「所詮、そういうものだ」と関係者は言うのだろう。
だから日本は進歩しない。

有権者の意識がかわり、これまでにない
平和と正義の議員を新たに選出するしかない。
今の議員は全て替えてしまうことだ。

結局選挙で選んでいる国民の目利きが
なっていないということなのだ。





教科書はあくまで教科書にしかあらず

「教科書問題」なんていうのが時々浮上する。

これを教育のバイブルと一般的には考えるのだろう。
しかし、私には「参考書程度」である。

考えてみればわかる。
全ては実は「本当なのか」という疑問から出発する
ことなのだ。

例えば1+1=2

こいつを疑ってかかることはとても大切なことなのだ。

まあ、このように疑ってばかりいると現存の社会に
なかなか対応できないことにはなるが、
そういう人材の輩出は一方で大変重要なことなのである。

そもそも先生は何のためにいるのか?
ということにも帰結する。

私は生徒に先生の考えを押し付ける必要はないが、
先生の考えを大いに示していいと思う。
それが「人」が先生であることの所以である。

相変わらず偏差値教育がされている。
既存の社会にスムーズに乗っかる人間を作るためだ、と
私は思う。

ともかく親はもっともっと賢くなるべきだ。
力強く生きるための知恵を子供に付けさせるべきだ。

教科書や学校はこのためのあくまで一部だ。



固定概念にとらわれている

学校教育。
ロシアでは小、中、高と同じクラスだという。
私は高校の3年間が同じクラスだった。

韓国では先生に挨拶しないことなんて考えられない
という。

教育に関して世界に目を向ければ、日本は
あまりに固定概念にとらわれているのではないか。

これまで日本において所謂高い水準の教育を
してこれたのは、6、3、3の教育制度なのだろうか?
実はぜんぜん違うのではないだろうか。
バックアップする先生や家族の情熱があったから
ではないだろうか。

今、この「高い水準」についても何をもって
いうのか考えなければならない。

さて、毎年クラスが変わるメリットとして
「いろんな人と出会うことができる」という
意見があった。
それも、そのとおりではある。
ただ、ずーっと同じクラスということは、
皆で仲良く協力しなければやっていけないと
いう協調力を養う面も多いにあると思う。
どちらを選択するかは学校次第だし、どちらを
選択しようと基本理念がしっかりしていなければ
うまくはいかないだろう。

いずれにせよ今の日本は過去の産物を
忘れるところに来ていると思う。

テーマ:教育 - ジャンル:学校・教育

基本は家族だ

毎日食卓を家族で共にする。
これが社会の基本である。

さて、今の日本はどうだろうか。
戦後の復興のため家庭を犠牲にしてきた方も少なくない。
その結果、経済的に先進国には追いついた。

しかし、一方で家族はどうなっているだろうか?
勤勉が美徳の日本は、最も大切なものを平気で
犠牲にしていないか?

日本の今の繁栄は、長い目で見ると
一過性のものでしかないのではないか、という
気がしてならない。

何が悪いと言う前に、まず家族を振り返るべきだ。
そして、国は家族をしっかりサポートしていかなければ
ならない。




テーマ:美しい国へ - ジャンル:政治・経済

安部退陣の風潮はおかしい

安部首相を擁護するわけではない。

そもそも国民投票で選んだわけでもないので、安部であろうが
誰であろうが関係ないのである。

そこに関係性を持たせようとするマスコミ、世間のやり方が
おかしいのである。

それは、何かに押し付けておけばいいという体質だ。

今回の選挙は自民党の大敗なのだ。
そのことを自民党はわかっていない。
安部がいけないという。

安部が継投したっていい。問題は安部がどのように変わって
いくかだ。

繰り返す。
責任の所在を安部に押し付ける体質がおかしいのである。
安部は国民が選んだ人ではない。

極端な話、党外へ安部辞任を自民党自身が言うならば、
それは自民党自身が自ら辞任することと同等なのだ。
このことがわかっていない自民党議員が多すぎる。
少なくともしっかり後継者くらい提示してからにしてほしい。

テーマ:安倍晋三 - ジャンル:政治・経済

自然にマッチした国づくりを

中越沖地震ではっきりわかった。
地震国日本においては核発電は撤廃すべきである。
理由は明快。
どのように対策を打っても放射能漏れを防ぐ
ことはできないからだ。自然は人の想像を上回る
という前提に立ってのことである。

島国日本。
この国にしかない自然環境がある。
それにマッチしない開発は今後絶対にしてはならない。

悪戯に海を埋め立てて高層ビルを立てている。
専門家は「全てを想定している」というだろう。
しかし、実際に事が起きた時は
「想定範囲外だった」という。

お金に目の眩んだ人種を如何に相手にしないか。
これが賢い市民、国民である。

では、そのように自然とマッチしていくべきか。
そのへんを想像力もって考えられるかどうかが
問題だ。これを考えられるようにするのが
教育である。

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