2017-06

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ITと学校教育

先日、某自称公共放送で「ITと未来の学校教育」(正式名称忘れました)に関する東京のイベントを3分程度紹介していた。

電子的な黒板は、その上で棒のようなものを手のごとく操作すると様々な図を描く事ができたり、コンパスや分度器の役割を果たすこともできた。

会場の映像をスタジオで見ながらアナウンサーは「うわー、すごい」とやっていた。そういうところで終わっていた。

これを見て「うーんと思ったので、このブログを書いている。


限られた時間の中であるから、未来の教育はITで変わっていくのだね、ということをポジティブに捉えて終わっても仕方ないことなのかもしれない。しかし、この番組には学校教育の多くの問題が隠されている。ざっと列記する。


・企業の営利優先による教育現場や子どもたちへのIT機器の投入。メリットのみを強調し、デメリットについては関知していない企業。

・iT導入に関する行政と教育委員会と現場のずれ。導入されても現場で使えない、使われない。この原因には、IT機器自体に問題の他、ヒモ付きで導入されているための運用範囲の限定によるものなどがある。

・IT導入に関するデメリットに関してしっかり議論され蓄積され認識され検討され想像され注意されていない。デメリットがあるからITは使わない、ということではなく、デメリットに注意しながら運用する、ということである。もっとも、悪く言えば子どもたちがITと教育の「モルモット」になっている状態ではある。だからこそ、よりデメリットに対して細心の注意を払わなければならないはずである。

・そもそもITと人間の関係に関する研究が極めて不足しているように思う(どのくらい研究されているか調べていないで私は言っている)。


「文字が書けない」といったことはないだろうか。私は以前に比較し、楷書で書くのがかなりしんどくなってきている。知り合いは漢字を思い出すのに苦労しているという。年齢のせいかもしれない(笑)。が、そればかりもでないだろう。パソコンばかり使っていれば十分考えられる結果なのだと思う。

問題は単に文字を書けない思い出せないということではない。そのことによる二次的弊害である。アナログな文字を書かない書けないということの弊害である。実は私もこの弊害がどういうものかわからない。わからないから想像する必要がある。少なくとも、電気がないと文書をかくパフォーマンスが落ちることだけは確かだろう。コンパスの現物は使えるだろうか?そのように考えていくとサバイバルには弱い人間が育つだろう。「サバイバルなんて、そんなのめったにないよ」というところだと思う。そうだろう。しかし、そういう時に限って、いざという時の「いざ」が訪れてくるのではないだろうか。

人間同士のコミュニケーションにコンピュータが介在する割合が高くなってきているわけである。何もかも悲観的に捉えてコンピュータをシャットアウトしろというのではない。ただし、悲観的に考えることは今重要であると思う。楽観的に考えて通り過ぎてきた結果、従来になかった社会的事件や問題が起きているのだと思うからだ。

そう、今はコンピュータがちょっとした人の手間を省いてくれているにすぎないだろう。ただし、間違いなく少しずつコンピュータのエリアは拡大していく。

カーナビはとても便利だと思う。半信半疑で使い始めたら、こんなに便利なものはないと思う。どこかへ行く時の不安が解消されましたから。住所だけ聞けばたどり着ける。迷っても携帯電話で確認できる。しかし、こんなに便利になってもそれに比例して人の幸福感が増す訳でもない。そして、何も持っていなければ人に聞くしかないことになり、それは聞く事の能力の維持や向上に繋がっているのではないだろうかと思う。そういう機会をコンピュータで失っているわけだと思う。

あたりまえだが、社会において当分コンピュータとつきあっていくことになるだろう。コンピュータをうまく活用し、より人とのコミュニケーションを大切に充実させるように向うように願う。それは世界や人種などの相互理解や様々な差別を少なくしていくことにつながると思うから。

テーマ:雑記 - ジャンル:ブログ

電力経済ボケ社会からエコ経済健康社会へ

日本ほどエアコンが普及している国はないでしょう。そのへんの世界との比較資料がなかなか出てこないので、よいものがあればご紹介ください。

暑くて湿度が高く、そういう条件下でもせっせと仕事をする日本。どうもこれは世界的に見ても稀のようです。他国は暑くてもカラッとしているか、暑いときは仕事をしないかのようなのです。このへんも「日本と似たようなところある」というお話あれば伺ってみたいです。

日本人は猛暑の自然環境を克服しながら仕事にせいを出し、戦後の日本を築いてきたのでしょう。そしてそれはどうやらエアコン電力のおかげによるところが大きいようです。

私は日本のエアコン普及を肌で感じてきた一人だと思います(私はクーラーと言っていたので、クーラーと以降言います)。1960年-1979年神奈川県に住んでいました。40年前、クーラーはまだまだ高値の花だったと記憶しています。電車には結構普及していたと思いますが、バスや自家用車では皆無だったと思います。一般家庭においてはあるほうが珍しかったと思います。それから10年、つまり1970年代になるわけですが、どんどこクーラーが普及してきたわけです。以前なら「あそこのあそこは涼しい」とか言って駆け込んでいましたが、80年頃にはどこもかしこもクーラーになっていた感じです。

調べたわけではありませんが、恐らく、クーラーの普及率とマンションや高層ビル、駅周辺の多層化(地下)は一致していると思います。40年前は高層ビルなんて霞ヶ関ビルくらいしかありませんでしたから。

以下のようなことだと勝手ながら思います。
高層ビルは経済成長の証のようなものだった。どんどこ建てた。つぎからつぎと人が集まった。海もどんどこ埋めた。コンクリート、アスファルトはがんがん熱を吸収した。発散もするが高層ビルで風が流れず発散できなかった。よってクーラーをがんがん効かせる。が、クーラー自身も熱を同時に外に出す。電車も高速で増線増便で、居住はばんばん都心から離れる。この電車でも電気をがんがん使うのだ。ところで、他国は見た目は似ていても、高層ビル群の都市は実は気候は夏であっても夜は寒いくらいになるのであった。そこに気付かず繁栄繁栄と熱にうなされて出来上がったものは、世界の中で最も自然を無視し最も自ら過酷な環境をつくり最もクーラーを使って冷やすという超エネルギー消費都市だったのだった。最近でも相変わらずコンクリートは建てるけれども屋上に木をはやし、夜景や湾岸の見えるところで野菜を取れるので「エコ」というようである。なんでもかんでも電気電気で電気があればなんでもなんとかなるとやってきた。

都会に人を一極集中させた。仕事や企業のために住みたいところに住めない。家族でいっしょにいれればいいが、家族ばらばらになってどーするのか、おとうさーん。我が家が危険に遭遇したら、誰が家族を助けるというのだろーか。親戚もあっちこっちにいっちゃって、子育てに悩む女性が増え「子育て支援」策が登場する。しかし、本質的にはこういう支援が無くなる方向にあるべきであり、無くても家族が地域が支えれる家庭環境を取り戻すべきなのだと思う。同様なことには「介護」もあろう。
長い目で見ると、電力経済社会は幸せよりも不幸への道を生産していたのかもしれないと考える。

「地方分権」とか「地域の自立」がさけばれてどのくらい経過するだろうか。本当はこれらに進むことが今重要で、日本日本とやるのは違うと思います。「地方分権」「地域の自立」は議員が地元の票を取るためのものだったのでしょうか。

別に特別変わったことをしようというのではありません。各地域でのびのび家族がいっしょに過ごせ、のびのび子育てができる環境をつくること、それらのために今人口が集中してしまっているところをそうしなくなるようにしましょう、ということなのです。

日本は電力を使って人を東京に集中させ世界の中でやってきました。電力を使うだけ使って、集中によるストレスを緩和させてきたのだと思います。緩和だけならいいのですが、バーチャル(仮想)な世界で取り繕ってきたところもかなり大きいのではないでしょうか。演奏のゲームは楽しいけれど、いっしょにスタジオで演奏するほうがめちゃめちゃ楽しい。コンピュータ相手も楽しいけれど、人が相手なのはもっと楽しいのです。いやっ、だんだんコンピュータのほうがいい、という人が増えてきているのかもしれません。そこのところはどうなんでしょうか。

原発事故は私たちに重要なことを示してくれているのだと改めて思います。
今までのような比例関係で電力に依存しながら一局集中を続けながら歪みを取り繕う施策(カバー)をつぎからつぎへと繰り出してやっていくのか。それとも電力に頼らない(使わない、ということではないですよ)でもなんでもないようにやっていける、子どもがすくすく育ち大人がはりきって仕事をし老人が好きなように余生を過ごせるような地域社会の集合としてやっていくのか。

「再稼働なしは集団自殺」とは、あまりに貧弱であまりに将来への想像をかいた発言だと思い、今回の日記となりました。ここで仙谷氏の言う集団とは、まず原発利権ありき、の人々のことを的確に指しているのだと思います。本人に意識はないと思いますが。

最後に。
同じ人参でも専用の皮むき機を使うより、包丁を使う方が脳が活性し、ぼけ防止に役立つそうです。電力の使い方もこれと同じだと思うわけです。人間は「食べる」「コミュニケーションする」「何かする」でとても幸せだと思うのです。これらに電力をどう活かしていくのか。使わないことも使うことも活かすうちに入ると思います。問題は「電力ありき、電力依存」だと思うのです。これではきっとボケるのだと思います。



以上は新聞「「再稼働なしは集団自殺」仙谷大臣の発言記事を読んで。

テーマ:雑記 - ジャンル:ブログ

立て直しをあせるな

原発事故を機会に日本の民主主義や自治やまちづくりの問題点があらわになってきた。この問題点は戦後の時間の積み重ねでできあがってしまったものだ。途中でも何度か赤シグナルが出ていたのだろう。しかし、それを対処療法的に覆ってしまったのだ。こうしてつくられたものは欠陥住宅のようにやがてどうしようもないところまでくる。

今「日本はどーする」とそこいらじゅうで言われているし耳にする。しかし、まだまだ対処療法的なものが進み、根本的なところをコンセプトを見直そうとするところが少ないように思う。弱いように思う。

欠陥住宅の立て直しである。ある部分はゼロから考え直さなければ、また欠陥住宅をつくることになってしまう。

もしかすると日本人は極端に「根本的な見直し」「コンセプトづくり」に弱いのかもしれない。全てを白紙に戻して考え直すことが苦手なのかもしれない。何かの前提を用意したうえで、議論をしないと議論できないのかもしれない。しかし、それでは駄目だと思う。

日本再建については世代間の考え方の違いも相当あるように思う。このへん、相互理解するところからもやらなければならないだろう。


ただひとつ大切にしなければならないことがある。
それは出された質問や指摘された問題に対して目を背けないこと、誤摩化さないこと、である。ある問題Aに対して「そりゃあ難しい」と思ったら、それをできる人を探すことである。考え抜くことができる人を探すことである。そういうアクションなしに、「難しい」「そういうものだ」で止まっていては対処療法で終わるだろう。こんなことを言っていれば「口で言うのは簡単だ」「現実だ」「大人でない」と出てくるのが目に見えてくる。そうして口を閉ざす人が増えていくのだろう。

専門家でも誰でも自分が「難しい」ということで他者の思考を止めるようであってはならない。むしろその逆で、自分も思考を進めるし、より周囲の思考を進めることをしなくてはならないと思う。


「これから重要になってくる地域力とは、思考を続けることである」
私はそう思う。





テーマ:政治 - ジャンル:政治・経済

知れば知るほどに知らないと知る

TV放送大学を聴講してのことです。
明治神宮の森は人口につくった割には立派な森だそうです。
その森の地面の足跡程度の広さに一体どのくらいの生物が存在するのかある学者さんが調べたそうです。細かい数値は忘れましたが、ミミズやダニがそれぞれ数万匹、他にも沢山の種類が数千から数十万の単位で存在するとのことです。ミミズの数には驚きましたが、もしかすると聞き間違えかもしれません。まあ、ともかく私たち一般人の想像以上の種類と数の生物が身近な土の中にいることは確かなのです。

生物学者は生物のことに当然詳しいのですが、詳しいと思っていても地球に存在する生物の99%は未知とのことなのです。ちなみに知っている1%は200万種類程度とのことでした。こうして知っていくと、実は知らなかったことがわかってくるわけです。物事とはそういうものだと改めて思った次第なのです。

ところで、それでは生物学者は何も知らないのかというと、そんなこともないそうです。地球上の生物はある一定の規則により生きているということなのです。エネルギーを生成させることや遺伝の方法など6点くらい説明がありました。地中のダニと私たちは基本的に同じということなのです。

ここまでくるとまた「知ってきた」となります。

さて、ここで考えこみました。
放射線はダニにどのような影響を与えているだのろうか、と。どなたかわかりますか。そうです。またわからなくなりました。

そして想像すると恐ろしいことがわかると思います。
生物は複雑な連鎖で成立しています。その生物のそれぞれを私たちは同じ様なものとして考える事ができる一方、個々の生物に対して放射能が何をもたらすかわかっていないのです。しかも、知っている生物は1%だけです。

このように考えていくと、現実は恐ろしいと思えます。特に自然に逆らった場合、恐ろしいと気づいてきます。なにかの生物に異変が生じ、その生物が消滅したり、変質することでそれまでにあった連鎖が変わると想像できるのです。草がなくなればその連鎖で肉食動物が大きな影響を受ける事は学校で教わりましたから、連鎖については誰しもわかると思います。しかし、目に見えない連鎖についてはわからないし、見えないからなのか「大丈夫」と安易に考えてしまっているところがあるのではないでしょうか。「へーき、へーき」と。寸断された連鎖が私たちに影響を及ぼすまでに何年かかるかわかりません。数年かもしれないし数万年かもしれません。いずれにせよ、目に見えてわかった時には遅いのかもしれません。

福島第一原発事故が起きて数日後に、放射能が海洋の食物連鎖に与える影響に関して水産庁から「大丈夫」というようなコメントが出ていました。出たのは確かです。どういうレベルのコメントかわかりませんが、記憶している人は記憶していると思います。
「大丈夫」というこの言葉。自然に何かしでかした場合、これを言えるのは神様くらいしかいないのではないでしょうか。見識の深い学者ほど「なんともいえない」と答えるのだと思います。

人と自然との付き合いということでは私はインディアンを思い出します。インディアンに詳しいわけではありませんが、自然を尊重しながら生きてきた人達と思います。
私たちは日頃「インディアンのように生きよう」といえば、「君、車も飛行機も捨てられないよ」とかそういうことになるでしょう。しかし地球規模的に世界的に「地球温暖化」とか言い出したということは、人類として自然との共生を真剣に考えなければならない時にきていることの現れだと思います。そして、今すぐ何かができなくても、自然を尊重していく心を一人一人少しでも心のどこかに灯せればいいと思いますし、そういう時代に差し掛かったと思うのです。


以上のことから次に行き着くのです。

自然と原子力を知れば知るほど、知らないということがわかってくる。

放射能に関して「大丈夫」と言い切っている学者のその根拠は「人類の経験」でしかないのです。理論的な根拠を聞いてみてください。恐らく出てこないはずです。経験が駄目だということではありません。ただ「経験」と認識するのと「論理」と認識するのでは月とスッポンのような差があると思うわけです。

「人間が人口的に生み出したものは基本的によくない」
「しかし、人工的なものによって世界の一部のひとたちが恩恵をうけている」
「その恩恵は人間の欲望によるものである」
「人間の欲望は人間を進化させるが人間をも滅ぼす」
「結局、人間にとって大切なのは欲望の使いどころである」
というふうに思い巡りました。


「欲望の使いどころ」
これを個人レベルで地域レベルで国家レベルで人類レベルで常に考えていくことが大切だと思いました。







テーマ:ぶつぶつ - ジャンル:日記

大手マスコミと民主主義政治

http://mainichi.jp/area/news/20120407ddn002010037000c.html
という毎日新聞社からの
「<石原都知事>橋下大阪市長に強い期待感」
という記事を目にして。


 優等生の大手マスコミ。
権力をチェックしているようにみせかけて、権力を作り上げ、そこから巧みにお金を生み出していると思います。そこには民主主義政治を成長させなければ、という視点は微塵も感じられません。
 
 「ある情報」はいろんな方面からいろんな編集により、それぞれの読者に伝わるのが民主主義的だと考えます。しかし、今の大手マスコミ、どこも似たり寄ったりではないでしょうか。

 今回のような記事はこれから随所で出てくるでしょう。繰り返し繰り返し。理念や政策はその繰り返しのところどころに入れます。入れないとさすがに報道っぽくないですから。

 最近「ヒトラー」という言葉を目にすることが多くなりました。これは市民が率直に感じることなのだと思います。昨今の日本の状況からすれば、それを打開するのに「わかりやすいこと」が効果的でしょうから。

 しかし、今、この「わかりやすこと」に市民は安易に飛びついてはならないと思います(安易に飛びついている時点で「市民」とは言わないのだとは思いますが)。そして本来は市民側に立ち、安易に市民を取り込もうとする権力をチェックしていかなければならない大手マスコミは全くその逆で、安易さを増長させていると思うわけです。

 今、日本はどうして今の状況になるのでしょう。これは端的には欧米、特に米国の模倣をしてきたツケだと思います。模倣をしてきたので、基礎力がないのです。「米国ではねー」だとか言葉のはしばしに英語をちりばめたりとか、そういうやり方で盛り上がり進んできたわけです。そのツケです。

 このことは原発事故に象徴されていると思います。米国設計の原子炉をそのまま地震国日本で運用したツケです。スイスだったと思いますが、福島と同じ米国設計仕様の原子炉にスイスの観点で変更をしています。自分たちの安全に対する基礎力があるからだと思います。日本にはこれがないのです。厳密に言えばもちろん基礎力を持っている人はいるのでしょうが、そこが生かされません。そのへんの大きな阻害要因が「米国の模倣から生まれた日本の経済優先主義」なんだと思います。全てが模倣ではないですが、大半は模倣だと思います。

 民主主義政治についても日本には基礎力がないと思います。ないからあたりまえのこと、常識的なことを声たからかに言う人に、簡単に魅かれてしまうのだと思います。恐らく基礎力のある国の人から見れば「そんなことができていないの、日本は」となることが私たちの想像以上にあると思います。

 今、日本は困難な時期にあり、これを凌(しの)ぐことは必要ですが、それはあくまで凌ぐことであって、大切なことは日本のあらゆる面での基礎力をつけることだと思います。基礎力のないことを自覚し、どうしたらそこを身につけていけるかを考えていく。考えてばかりでは破綻してしまうから、凌がなければいけませんが、あくまで凌ぐという自覚を持つ。であれば、凌ぐために身の丈にあった暮らしぶりを心がける。

 基礎力のひとつに「民主主義政治と情報」があると思います。

 昨今はツイッターやフェイスブックなどマスコミを通さずに行き来できる仕組みがあり、実際にこららを活用している多くの市民がいるでしょう。それはもちろん喜ばしいことですが、反面これさえも注意が必要だと思ったりします。米国がつくったシステムであるからです。個人の権利と主張を重んじる(もちろん、ないがしろにされている部分もあると思いますが)米国人だからこそ、流れてくる多用な情報から自分の観点で選択していくことができると思うわけです。しかし、日本人はどうでしょうか。内容の議論なんかしないでも、その場で皆で「おー」なんてやって物事が決まってしまうようなことろがあるでしょう。蓋を開けてみると、これらのツールが権力のいいように使われてしまっていることにもなりかねないと危惧するのです。

 そうならないためには「基礎力」だと思うのです。

 最後になりますが。議員になろうとする者、議席を確保しようとする者が今の時代、大手マスコミを批判できるでしょうか。こういう者が例えば「記者クラブ」の存在を否定し改善しようとしているでしょうか。どうでしょうか。選挙が近づくにつれ、そのへんはどうでしょうか。

 本当に志の高い政治家を輩出するならば、現体質の大手マスコミに頼らない方法が必要なのだと思います。それが可能か不可能か、市民の「基礎力」が問われているのだと思うわけです。

原発が世界からなくなる日

人類は過ちを繰り返す。一人一人が正しく考えても、権力が誤った道に国を進めてしまう。国にとって権力はできうる限り小さく控えめにあるべきだろう。

世界は大戦を2回行なっている。3回目はさすがに大国自らの存亡も危うくなったので回避されたが、それでも小戦(大戦に比較しての表現)を繰り返している。

原発はどうだろうか。世界で運用が始まった時、そこには明るい未来を描いている人が多かったようだ。しかし時間の経過とともに問題が次々明らかになり山積みされていった。それらは市民に直接被害を及ぼす事故が起きてから漸く市民に認知されるようになる。

何本かの原発関連ドキュメンタリー番組を見てこの記事を書き出した。

原発を多く使用する国である仏の状況は番組を見る限り深刻だ。電力会社が国営から民営となり、原発の安全管理に「費用対効果」がより色濃くなってきているのである。メンテナンスはどんどん下請けに任され、危険な作業ほど下請けの下請けなどに回る。リスクの高い代わりに賃金が高いと思えば、全く逆である。人材教育にかけるコストは削減され、人材は育たない。現場からは「今のメンテナンスは危険だ」と声が出ているとのこと。

人に幸福をもたらし経済発展の目玉とされた原発。運用してわかってきた危険を回避するために安全策を講じなければならないが、ビジネスとして成立させるために切り捨てられているものがあり、それは増え続けているようなのである。

大戦のように、多くの人が亡くならないと相変わらず人類は目を覚ます事ができないのだろうか。いや、これには語弊があるだろう。オーストリアやイタリアなど国民投票で原発廃止または廃止に向っているところもある。目を覚ませないのは人類ではなく、民主主義が正常に機能していない国ではないだろうか。そういうことからすると、米国や仏はどなっているのだろうか。個人の権利と自由を何よりも重んじていると見られている国だったが、ある種の利益のために個人の意見を封じ込めるこもと同時に強固に機能しているのだろうか。

チェルノブイリのような事故は10万年に1度想定されていたようである。しかし、実際にはこの30年の間にレベル7の事故が2回起きているわけである。これは学者の考える想定が如何に不確実性の高いものであるかの証明である。原発がここまで示してくれているのにまだ目が覚めない国々がある。きっといつか取り返しのつかない大事故が起きるだろう。それでしか目が覚めないのだろう。

ところで廃棄物の処分はどうなるのだろうか。フィンランドは決まっているようだ。ある強固な地盤の地下に何十年もかけて埋めていくとのことでそれは開始されている。そこに10万年は保管する必要があるとのことだ。この10万年の間に氷河期が来て人類は滅びるかもしれないとのこと。そこまで想定し、氷河期が過ぎ去った後、人類が復活し、この危険な地下に侵入しないようメッセージを残した部屋もつくっているそうだ。

しかし、どうだろうか。「想定」といっているが、それはあくまで現時点の「想定」である。そのことをわかりながら不安そうな顔をして話しをしている学者もいれば自信満々な学者もいる。前者が本当のところだろう。後者の思い上がりも甚だしい学者は多い。何をどのように論じても自由である、が人間と自然の安全まで論じてほしくはない。論ずるなら「危険」である。一般に提示すべきは「危険」である。一般人には到底知り得ない危険を予測し提示することが学者の使命である。この提示された危険を人類が平等に知り、それをどう扱うかを判断するのが政治であり民主主義だろう。「国民が心配する。騒ぐ」と隠蔽しているうちは「民主主義」ではないのだ。個々にその行動の責任が持たされているのが真の民主主義だと私は考える。政府の重要な役割は極論をいえば「情報提供」ひとつしかないと思う。であるから日頃から政府も市民もそういうスタンスで事に当たらなければならない。惨事の時だけうまく動くなどむしのよい話しなのだ。

今、原発を進めようとしいる人は矛盾の中に生きていると思う。話すことに何一つとして確実な根拠がないのであるから。原発の日本におけるストレステストを保安院が評価する件の委員会のライブ中継を聞いた。基準は福島第一に訪れた震度と津波のようだ。つまり、想定といっても過去の事例から想定するにすぎず、想定したからといって何の安全の保証もないのである。そりゃあそうだろう。地震国日本で地震の予知もできないのだから、原発へのストレステストなど実効的でないのはあたりまえなのだ。そのストレステストだって欧米から持ってきたものだろう。そんな借り物で国の運命を左右するテストをやり続けようとする人達に責任感など微塵も無い。いや、本人は自分の任期中、目の前にある「テスト」を実行することが「責任」だと疑わないのだろう。こういう人達に安全の話しなどしてもわかろうとする回路が無いのだと思う。

安全に関する日本の最大の誤解は原発を他の建造物と同様に考えるところにある。他の建造物は最悪壊れてもしかたないというポイントがある。だからリスクを想定しそれに向って検討を押し進めることができる。しかし、原発に限っては最悪でも壊れてはいけないのである。このことを考えれば答えはひとつしかないだろう。その答えへの道筋はできているのだ。ところがその道があること知っていても、まだそこに出ようとせず他の道を探ろうとする人々がいる。自分達がやってきたことを否定したくないのだろうか。そう思う。それは日本が自ら戦争に終止符を打てなかった時と類似している。

ところで原発を進めようとする人の進める大きな理由はひとつ。「代替えエネルギーがない」である。しかしこの理由には条件があり、その条件には言及されていない。条件とは現在の生活水準を維持する、という条件である。まず、現在の生活水準を維持したいかどうかを問う話がでていない。または、これを維持するとしてそのために必要なことについてエネルギー以外に論じられていない。

世界から原発がなくなる(電気を出す原発がなくなる)シナリオは以下のとおりだ。
(1)どこかで想定外の条件により想定外の大事故(レベル8以上)が起こり過去に例のない想定外の事態となる。
(2)この事態から原発を持つことそのものが国を滅ぼすことになる認識を世界がもつ。
(3)原発廃炉ビジネスが振興、同時に新エネルギービジネスも振興する。
(4)廃棄物の処分と保存をどのようにするかが難問となって重くのしかかってくる。原発をより多く稼働してきた地域、国ほどそれは重い。

前述のフィンランドの話を繰り返す。廃棄物を10万年間安全に保管し続けなければならないのである。関係者はその10万年を想定しているのである。とりあえず想定しているが、誰も想定どおりにいくとは思っていないのである。あたりまえだろう。10万年経つまでに氷河期で人類は滅びることもあるのだそうだ。笑ってしまう。原発は未来に残すロシアンルーレット付き爆弾または巨大地雷なのだ。

上記(1)になる前に気がついてほしい。原発を続ければ続けるだけ、その廃棄物が増え、老朽化し、運用人材が不足することでリスクとコストが増えるだけなのだ、ということを。現在の利益を追い求めるあまり、新エネルギーへの転換が遅れ、負の遺産を抱えて生きる国になる。これは物語に例える事ができるだろう。舌切り雀だろうか、はたまた蟻とキリギリスだろうか。3匹の子豚かもしれない。

これからは各国の脱原発計画の競争である。どのくらいの期間で脱することができるのか、である。米も仏も本当はそう思っているのかもしれないがあえて公言しないのかもしれない。公言すれば現時点で世界のトップでないことは明らかであるからである。それだから余計に内密に水面下である日に向っているかもしれない。ある日とは原発をなくす日である。このへんは私の勝手な想像である。ただ、米仏が自立している国だと思うから、手放しで「原発推進」などとは原発推進者自身も発信していないのだと思う。自分がイニシアチブをとれる機会をたんたんと狙っているのではないだろうか。それこそ世界に原発を売るだけ売り、その後に廃炉ビジネスでも儲けようということである。このへんでも最も問題なのは「日本」であろう。米仏のもくろみなど知らずにただただ金魚の糞のように彼らに付いて行けばどうなるのか。

福島第一原発事故を生かせなくてどーする日本。過去の間違いを潔く認め、1からやり直すところに国民の力は結集する。今、日本はそういう時期なのである。

テーマ:これでいいのか日本 - ジャンル:政治・経済

集中力について

集中すれば良いことができる。もっともな話だろう。
しかし、このことをもっともっと真面目に真剣に捉える必要があるだろう。

テニスを例にしよう。集中することにより、それまで培ってきた技術の個々が統合され結ばれ、ひとつの大きな力になる。よって如何に集中するか、集中力を高めることが勝利のために重要な要素になってくる。

繰り返しになるが。集中によって個々の力・技術が結集されるのである。

テニスを例にとったが、これを仕事、勉強、遊びなど日頃の私たちの生活に置き換えて考えてみる。私たちが個々に能力を発揮し、それが結集してより良い社会がつくられていく。そのためには個々が集中することが重要なのだと改めて思うのである。

問題なのは、ここで「集中しろ」なんて頭ごなしに言ったり行動したりしてはならない、ということである。人は目的や好きなことに対して集中できるものだろう。ここのところが肝心なのである。

「こうだ」という方法はないと思う。ただ、誰にも集中できる対象があるはずであり、それを自ら見つけたり、他者が支援したりすることがとても大切なことだと思う。


学校教育はどうだろうか?
会社の中はどうだろうか?
地域のまちづくりはどうだろうか?
政治はどうだろうか?

集中するために何が欠けているだろうか。いくつもあるだろうが、その中で大義も重要である。政治に限っていえば、口先だけの「日本を良くしよう」「頑張ろう」、ご破算になる政権公約など、これでは誰も集中できないのである。

テーマ:その他 - ジャンル:その他

厚化粧をとること

「北海道は素晴らしいので住んでください」という旨の記事を最近見た。
そりゃあ誰だって良い所をPRしたいし、実際にそういうケースが大半を占めるだろう。

しかし、本当のところは違うだろう。
例えば結婚を考えてみる。一生のことと思うなら、如何に相手の素を見ることができるかが大切なはずだ。逆には如何に相手に素を見せるか、である。その素の中には一般的に言える様々な問題はあるだろう。そうした問題を受け入れることができるかどうかが、結婚のポイントだろう。

こんな話しをすること自体あたりまえすぎて恥ずかしい。ただ、こういうことを抜きにして「誘致だ」「永住だ」「なんだ」といのは失敗への道だと思うのである。

「北海道は厳しい。この厳しさと向かい合う気持ちがないのなら、来られる事はお勧めしない」
というのも必要だと思う。

テーマ:その他 - ジャンル:その他

国は何のためにある

国は何のためにあるのか?

私は歳をとるにつれこの疑問にぶちあたることが多くなった。

国は個人の尊厳のためにある。私はそう思う。社会に生きる以上、個々は他人のことも考えて行動しなければならない。しかし、個々の尊厳は最優先されなければならないと思う。国や組織の都合はその次なのだと思う。

個々が健康的に暮らすために国がある、ということだ。

そして、自治体も個人のためにある。その自治体のために政府がある。

ところが実際はどうだろうか。国のために個々が犠牲になっていないか?国のために地域が犠牲になっていないか?それも度を過ぎた犠牲である。

原発事故に関しては底なしに費用がかかり、マスコミからは「国が負担する」と報道される。これは大いに曖昧な報道である。「国」が負担するとはなんなのだ?「国」なんていうものが負担するのではなく国民が負担するのである。こういうところを正確に報道すべきだ。「国」が得体の知れない権威になってくる。私たちは国に何かしてもらっている気になっていく、なっている。しかし、実態は違うのである。何かをしてくれる存在など本当は無いのだと思う。あくまで自分達が自分以外に委託しているのであり、何もかも問題の元を辿ると自分にたどり着くのではないだろうか。ぐるぐるまわりである。

このぐるぐるまわりをしっかり認識することが日本にとって大切だ。たらい回しのぐるぐるではない。人と人が協力しあっている社会であることの"ぐるぐる回り"である。

私は政府を国とは言わない。北海道庁を北海道とは言わない。江別市役所を江別市とは言わない。何故ならば私は個人であるとともに、国であり北海道であり江別市であるからだ。

やらせと日本社会

原発に関連した「やらせ」が問題になっている。

ここで考えなければならないことは私たち個々の「やらせ」ではないだろうか。明確な「やらせ」ではなく、個々に存在する弱い「やらせ感」とでも言おうか。そういうもので物事を進めてしまっている経験はないだろうか。

私自身記憶に蘇るだけでもいくつか「やらせ」を経験している。その経験の後には何の満足感もない。

「やらせ」に関する種類は様々だろう。あるイベントに知り合い関係を大勢呼んで盛り上がった気になるのもやらせだと思う。それが他者へ直接的に害を与えなくても、確実にイベントを主催した者には害となって蓄積されるであろう。

お役所がある企画案をたてた。その企画の実施を確実にするための根拠がほしいと考える。それでアンケート調査をする。アンケート調査はシンクタンクに依頼する。シンクタンクはアンケートの結果が企画実施に向うよう巧妙に質問項目をつくる。こういうケースが役人の頭脳を退化させ、税金を浪費するのである。

私たちが遭遇する「議論の場」で少数多数に関係なく、誰かの意見を真剣に聞き、その奥を知ろうとし、そこから議論を展開しようとするケースはあるだろうか?拍手の中に埋もれた意見を真摯に受け止める議論の場はあるだろうか。人間は弱い。集団になると持っている意見を言えなくなる。または心理的にそういう構造になっているのだろう。

こんな話がある。試験場に試験官1人と受験生1人がいて試験が始まる。試験最中に試験官が倒れる。すると受験生は試験官を助けようとする。しかし受験生が複数になると状況が変わってくる。なんと、倒れた試験官を助けようとする人がしばらく出てこないのである。これはあるTV番組での実験なのであり、あくまで参考である。

この試験官の話しを私は議論の場に思う。
話声が大きかったり、一般的に受け入れられそうな意見をいう人であったり、意見を言うのが得意であったり、実際に話がうまかったり、とそういう人の話が議論の場の空気をおおう。どれだけ貴重な意見を持っていても勇気がなければ話しだせないし、仮に話しをしてもそういう話しに耳を傾ける姿勢がその場になければその話は消えてしまいがちだ。
私はこういう場に「やらせ」の温床があるのだと思う。

大人になればなるほど未知を恐れ自分の知識と経験で固めたくなるのではないだろうか。そういう人々が集まる中に本当の議論は起きにくいだろう。
大切なことは「未知への挑戦」だ。これを楽しみ求める土台があってこそ、そこに議論が巻き起こり、「やらせ」を吹き飛ばすのである。

テーマ:これでいいのか日本 - ジャンル:政治・経済

「国が」を「国を」に

あるTVインタービューで行政職員が管轄住民から被災に関する相談を受けていた。そこでその行政職員から出た言葉は「国がやってくれない」である。

こんなシーンが日本全国に蔓延していないか。言われた住民は「うーーーーん」と黙り込むしかない。

ある市町村では原発事故関係で問題になっている学校給食に関し、独自に放射能の基準を設定し、独自に食材を調達しているそうだ。国が信用できないため、地域の行政、学校、住民が相談して決めた事だそうだ。本来、国が国民の信頼を受けて厳格なる安全基準を設定しなければならないところなのだろうが、その国が正しく動かない。だから地域が独自に動いたのである。「国が駄目なので、地域がやった」という例だ。
この例は子どもの体に関わる大問題であり、このような動きが加速されたのだと思う。

私が接していて自治体職員の悪い意味で最も特徴的なのは何かを相談された場合、「それはどこどこでやっている」と自分以外の担当を紹介するのが実に早いことである。これと同様なこととして、「それは法律で決まっている」があり、そして「それは国がやる」である。

このような言葉を発した後に、「では、私が何々してみます」という自分を主語にした言葉あれば相談した方にもまだ道が何かある。しかし、何もない。そして諦める。せいぜい次のたらい回し場所を聞けるくらいなのだ。

自治体職員が自分を主語として住民と接することがない限り、そういう地域には「自治」「自治体」「地方分権」などありえないと私は思う。かりにそこに「自治」という表現が示されていたとしても、それは単なる飾りである。「国が」の発想のうちは「自治体」ではなく「御用自治体」なのだと思う(御用自治体の良否は別として)。

真の自治を冠する自治体は「国が」ではなく「国を」でなくてはならない。現場(住民、地域)のため、国を動かさなければならない。自治体職員にそういう視点や立ち位置がなければならない。そうでなければ、公務員の言っている「自治」「自治体」なんて住民には到底理解できないし、理解したいとも思わない。そういう理解のない中で「自治」は何も進展しない。









国民は堂々と批評すればいい

 菅内閣総辞職間近のある日、ある方に聞かれた。「管さんでなければ誰がいい」と。私は「うーむ」と押し黙ってしまった。「ねっ、他に誰もいないでしょ。だから管さんでもいいのではないかしら」と言われた。「いや、言葉の信用できない管さんは総理として極めて不適格です」と返すにとどまった。

 後で冷静に考えてみた。国民に総理を直接選択する権限はない。ですから、選択するための情報もないし、選択する話しができなくてもいいのである。もし「誰々がいい」というなら、それは何を根拠に言っていることなのだろうか。読者の興味を引こうと、あーだこーだとあるようなないような人間関係を記事にしているマスコミからのものではないのか。

「首相は誰がいい」と聞かれてそれに答えるほうがおかしいと思うのである。答える人は一体何を判断基準にしているのか。

 今の制度では内閣ができ、そのアウトプットを見て、それを批評すればいい。良ければ良いし、悪ければわるい。批評ばかりして何もしない、ということはない。堂々ともっと国民は政府を批評すべきである。そして、マスコミはそういう声をできうるかぎり的確に表現してほしい。

「政治に無関心」という声が聞かれる。
このことは国として危ういことだ。数年や数十年はなんとかやっているかもしれない。しかし、単位を百で考えたらどうなるか。

本当は「政治」について国民が認識を変えていかなければならないのではないだろうか。「政治」から出てくるイメージはなんだろうか。そこに自分自身がきちっと関わってイメージできるのだろうか。そんな根本的なところを何とかするところに日本の将来があると思う。所謂政治家が「明るい日本」「元気な日本」「このままでは日本は潰れる」といろんなシーンで声を上げている。しかし、それは完全に一方向である。政治とは双方向でなくてはならない。

テーマ:これでいいのか日本 - ジャンル:政治・経済

国民主権

日本は国民主権です。
憲法の基本原理は
・国民主権
・基本的人権
・平和主義
です。
日本社会の中において
日本人はこの基本原理を基に行動し、これをを維持するために行動します。
もちろんこの原理は絶対的なものではありません。国民の努力と総意により
改善されていくものであります。

今、何故私はこのようなことを言うのかと言いますと。
昨今の公務員(議員、首長、首相)の行動に「国民主権」を忘れているのではないかと
思われることが多々あるからです。

首長や首相に権限があるといっても、それは国民により信託されたものであり、首長や首相に個人的視座は許されないのであります。常に国民の視座に立たなければならないのであります。そうはいっても国民にも様々あります。Aという主張に対し全く正反対のBという主張もあります。国民の視座に立つということは、とりもなおさず憲法に準じる行動をとることに他ならないと、私は思います。

昨今の原発に関する首長、首相などの公務員のとっている行動はどうでしょうか?首長には国に責任を転嫁するような行動しか見受けられません。「原発の安全性については国が補償する」という言葉を国から引き出し、それならば首長として原発の再稼働などを容認する、などといった事です。結局、こういう首長には万一の原発事故に対し何か責任をとろうという発想はないでしょう。第一、容認是非の際、住民投票をするとか、独自(首長独自)に世論の調査をするとか、そういう行動が首長に見られたでしょうか。

こんなことで
地方自治、地域の自立、地方分権、など進むとは到底考えられません。

地方自治とは
地域として
憲法の基本原理である
・国民主権
・基本的人権
・平和主義

独自の方法で推進する
ことにあると私は思います。

本件に関しては、引き続き記事を書いていこうと思います。


脱原発の市民は明るい

ニュージーランドでしたか。TVのインタビューに市民が答えていた。
「市民の税金負担が高いとしても原発を使っていないのだからOK」という旨の発言だった。

TVを見ている私の気持ちがそうさせるのか。ともかく答える市民の表情は明るい。
イタリアの国民投票で脱原発が決まった時の市民の表情もそうだった。

人の顔の表情って不思議と誤摩化せないと思う。
例え電波とブラウン管(今はディスプレーというのだろう)を通しても明るさを感じる。そして私は羨ましく思う。

綺麗毎ばかり言ってはいられない、と人にたしなめられる。そうだろう、実際の社会は知らなければ良かったと思うような構造が仕組まれている。子どもの頃はしらなかった。ただ大人になるにつれてわかってきた。だから「わかれ」といわれる。しかし、これではいつになっても良い社会になっていかないし、少なくとも良くなっていくための土壌が育たない。おかしなものはおかしく、それを正していくことが大切だ。しかし、おかしなものをなんでもないことのように運用している社会がある。それを正しいとさえ言ってしまうようになってしまっている。きっとどこかでわかっているはずである。心のどこかで。だから、そうした人々に真の明るい表情は見られないと思う。

ぼろは着てても心は錦、な社会は素敵だと思う。しかし、こんなことを言えば、「ぼろを着てては心も荒む」なんて言われる。さあ、どうだろうか。このへんに私たちが勝手に自分達を追い込んでしまったつまらない社会を感じるのである。

原発は何万年も生物に悪い影響を与える量の放射性廃棄物を出す。土中に埋めて分解したり、再利用できるゴミとはわけが違う。そういう処理できない負の遺産を後世に拡大しながら残しながらどうして笑顔でいられようか。例え笑ってもけして心から笑えない。錦は着てても心はボロとは言わないまでも心は晴れず、である。

ともかくなるべく早く原発から脱するべきであり、そのシナリオをいかに作り、そして実現していくか。そのシナリオにより動く市民は必ずや明るい笑顔を取り戻すだろう。



映画ジョーズと原発

映画ジョーズはサメの話だ。
ある町の海で人が死んだ。調査したところ人食いザメだとわかった。
主人公は市長にサメを退治するまで浜辺を閉鎖するよう進言した。
しかし市長は町の貴重な観光収入を優先しこの進言を黙殺した。
やがて悲劇は訪れた。

狭い島国日本。
であるにもかかわらず原発が54機もある。
3月11日福島第一原発で事故が発生し現在も収束のめどはたっていない。少なくとも半径10キロ以内は今後数十年住めないだろう。
この事故、今後も余談を許さない。同原発には全部で6機あるが、万一そのうち1機でも原子炉から爆発したらチェルノブイリどころではすまない事態になることも考えられる。それこそ本当に東京都内まで汚染されてしまうかもしれないわけだ。けっして大げさなことではない。

今回、地震と津波により事故が発生した。それで政府、自治体は既存の原発の安全性をチェックし始めた。このチェック、一体どこまで行なうだろうか。テロなどで攻撃された時のことを想定しているだろうか。燃料や廃棄物の輸送はどうだろうか。

原発はできうるかぎり早く廃炉を進めていかなければならない。
理由はただひとつ。未来永劫に渡って日本の国土を守るため、である。
原発は需要にいつでも対応できるエネルギーである。しかし、大事故を起こせば自然を破壊し、そこに人は住めなくなる。その範囲は半径数百キロに及ぶ。需要に答えるとか答えないとかの問題ではい。ひとたび事故が起きれば日本の国土の1/4は人が住めなくなるかもしれないのである。

それでもまだ原発を維持しようとする意見のほうが多いようだ。あるマスコミの調査では6割が原発維持だという。統一地方選挙では反原発が争点になるどころか、あえて封印している立候補者も多かったようである。公に原発反対をかかげた自治体首長にまだお目にかからない。マスコミが報道していないのかもしれないが。

この状態は太平洋戦争の時に似ていると思う。戦争をする前から米国に勝てないことはわかっていたが戦争に突入した。国民を「勝利、勝利」と高揚する。本土に空襲を受け、子どもを疎開させながらもまだあきらめずに応戦する。そして広島に原爆が投下される。それでもまだ目が覚めない。最期に長崎に原爆が投下され漸く降参する。人の命よりも国のプライドを保つことを優先してしまうのが日本の特徴なのだろうか。

「原発は安全である」と国は国民を信用させてきた。しかし、事故は度々起きている。その事故が起きる度に原発建設にブレーキがかかる。ところが時間が経つとまた建設が始まり、計画が進められる。そして今回の事故である。ところがまだ目が覚めない。日本は日本人はいったいぜんたいどうなっているのだろう。もう1回大事故が起きないかぎり、原発の存在の危険さがわからないのだろうか。

映画ジョーズはサメを退治して終わる。原発も退治しなければならない。この認識を持ってより多くの人が頭脳を使えば、必ず平和のためのエネルギー循環ができると思う。

私が住む北海道などは全国に先駆け真っ先にエネルギー源を転換する宣言をするべきだ。それが自然を守り自然とともに豊かかに生きる北海道のアイデンティティーだ。そうなれば北海道により多くの人が来てくれて、住んでくれるだろう。どんどん平和のための英知が結集されるだろう。




世論調査とメディアと政治とまちづくり

世論調査結果が新聞紙上で報告される。
「現在の政権を指示するか」などの設問である。

この結果に対して誰が何を思うかは当然様々だ。

問題は結果そのものよりも結果が出るまでの
過程にある。この過程に対して注意深く
洞察しなければならない。過程により結果は
大いに変わってくるからだ。

「世論調査」の世論がどのように形成された
のか、ということである。

 日本が戦争に進んだ理由の一つとして世論
調査があげられる。国に操作されたマスコミが
国民を戦争に賛同させるような記事を出し、
その記事によりつくられた世論を調査して世論
調査の結果とし、その結果を国民からの後押し
として国が戦争に突入したといっていいだろう。

 昨今の世論調査はどうだろうか。戦中の時の
ように操作されていないと言えるだろうか?意図
して操作しなくとも日頃流されている情報により
無意識に国民は操作されているようになってはい
ないだろうか。国民個々が主体的に自分の住む国
のことを考えるための材料(情報)をマスコミは
探し、そして出していかなければならないと思う
が、そのようになっているだろうか?永田町の人
間関係や人間の質に関する報道だけが洪水のように
日常に流れてくるが政策に関する問題・進捗につい
てはほとんど聞こえてこないのではないか。本当は
国民はそのへんにうんざりしているのではないか。
本当は国民は政策に関することと合わせて、その
うんざりの原因であるマスコミ自体のことについて
世論調査で答えたいのでないか。しかしそこまで
自己分析を自ら公表するマスコミもいないだろう。
余談であるが公的なところは自ら悪さを公表していか
なければならない義務があると思う。

 「調査」の結果を公表する際には、調査に
関わった主な組織を全て公表すべきだと思う。それ
をして初めてその「調査」の意味が見えてくるからだ。
世論調査に限ったことではない。その他の公的機関
の行なった調査やアンケートについてもだ。何故ならば
意図を持って予定どおりの結果を誘導するための調査や
アンケートもあるからだ。

 私たち一般市民には「世論調査」「調査」の結果を
どう分析(どうしてこの設問なのか。何故あの設問
はないのか。誰が何の目的で誰と作成したか。などなど)
するかが問われている。それが皆の平和な
まちづくり、くにづくりに大切だと思う。

自治とは

「地方自治」「地方分権」などの言葉は誰しもどこかで耳にしたことはあるだろう。しかし、このことの解釈についてはバラバラだろう。

「自治」とはどういう人々で共有されていなければならないのか、されているべきなのか。私は思う。「自治」の対象としている人々がいて、その人々の中で誰か長を決めるとした時、誰にも長にならなければならない責任がある、という人々。そういう人々で共有されていなければならないと思う。もちろん長には適正もあるだろうが、もしも何か(天変地異など)で人々が2人になってしまったらその時は適正の有無に関係なく引き受ける責任である。

 さて昨今マスコミ等で出てくる「自治」はどういう人々で何を共有しているのであろうか?マスコミ、行政、大学、議員に所属しない人には「自治」をどう捉えているだろうか。想像であるが、それは町内会なのではないだろうか。もっと身近なことをいえば「自分自身」になるのではないか。

 昨今マスコミ等で出てくる「自治」は現場の問題にほとんど目が向けられていないように感じる。現場とは私たちの暮らしやコミュニティそのものである。町内である。街である。マスコミ等で出てくる「自治」の見ている現場は役所だと感じる。この良否はわからない。ただ、このままならば役所のレベルにおいても「自治」は一向に進まないだろう。

 一部の人たちが自治のために何したかにしたと言っている。それも必要なことだろう。ただそれ以上に町内会で頑張って活動したり取り組んでいたり新たなことにチャレンジしていることのほうがよほど自治に近く将来のためになるだろう。こういう町内会活動を成長させていくところに本当の「自治」があると思う。もちろん町内会活動にも悪い面はある。それは是正していくことだ。

 地域の住民から地域の町内会からボトムアップで進んでいる自治の町が増えることが日本にとって望ましいことだと思う。首長が誰になっても不変な自治文化ができることだ。

わかる、ということ

人間ドックで血管の老化の測定をし、その結果の説明を医師から受けた。医師は3つの血管の標本を私に触らせながら説明をした。

私は動脈硬化など血管が固くなることを今までよりも確かに恐ろしく感じた。
3つの標本のうち1つの硬化が進行したものは下手をすると折れてしまいかねない堅さなのである。こんな血管が体内で機能するのかと思うとぞっとするのである。

「動脈硬化になります」と生活習慣の悪い人はよく言われるだろう。血管が固くなれば体に悪いことは論理的に理解しているわけである。ただ、どのくらい悪いのか本当にはわかっていないのである。

学校教育でも仕事でもなんでも同様だと思う。
一口に「わかっている」「理解している」といってもそれがどの程度にものなのかは本人も他人も追求しないとわからないのである。さらに、わかってほしいと思った時、この現実をわかっておかなければならない。またさらに、この「わかっておかなければならない」ということ自体もわかっていないとならない。こんなふうに繰り返していくと「わかる」といういことは延々に繰り返される確認や検証であることに気付く。

調和は不調和の集まりからできる

 「調和は不調和の集まりからできる」という話をある映画のお茶のシーンで聞き、心に残った。また、同様なことを別のシーンで聞いた。RCサクセションのボーカリスト忌野清志郎さんを慕う人が彼を「素直は曲がっている」と評した。

 調和のとれたものやとても多くの人に受け入れられたものなど、それらは最初からそうではなかったということである。最初は誰も見向きもしなかった。最初は誰も考えなかった。最初は誰も仲良くなかった。最初は誰も受け入れることができなかった。

 考えてみれば特別なことではない。ある仲間の中にある日1人が入ってきた。その1人によって仲間の関係は如何様にも変化していくだろう。

 私たちは日頃ほとんどの場合、既にあるものの中に新たな何かを受けると拒否反応を示すのではないだろうか。人によっては「拒否」は該当しないかもしれないが、そういう人は希少であろう。

 「拒否」は自然な事だと思うが、そこから受け入れるにせよ受け入れないにせよ変化していくこともまた自然であり大切なことだと思う。
 この変化の有様は様々であると思う。だからどうあらねばならない、というものはないだろう。ただ、問題なのは「変化」という言葉が辞書にない場合である。そういう仕組みや規則や社会はやがて駄目になるだろう。それも否定はしないが。

 何かの決めごとを作ればそこには必ずその範疇に入らない人やものが出てくるのである。それを単なる「違和」としてはならない。99%が否定しても1%の人がその「違和」を見守り続ける状態が望ましいと思う。

 私は何が言いたいのだろう?自分にあらためて問う。
 昨今の「このままでは日本は駄目になる」というコメント。
 このようになった原因もこのような状態の打開も今回のテーマにあると私は思っている。

 周囲を見回し同じことをしていれば安心し満足していた日本。今、それを卒業する時代なのだと思う。
 

 

国会・議会の見直しを

柳田法務大臣がその失言から更迭された。
彼は比較的自分と親しい人達がいる席で本音を漏らしてしまったのである。その本音の言葉が大臣にあるまじきものであったのだ。

さて、私は今回の件は一大臣の問題ではないと思っている。

彼の本音が
国会の形骸化している部分を示していると思うからである。

ねじれ国会と言われて1年が経つのだろうか。

ニュースで目立つのは与党と野党の落とし合いばかりであり、決められる法律などの内容に関しての議論が見えてこないのである。

国会はいつのまにか本質的な議論のできない場になってしまっているのではないだろうか。

地方の議会に関してある行政マンから愚痴を聞いたことがある。ある答弁に関して行政側が質問から回答までを作成し、それを議員が質問する、というものである。

皆、法には触れないようにしながら、従来どおりの段取りで、本質的な議論をしないままに、何かを決めてしまっているのではないだろうか。どうなんだろうか???

民主政治は三権分立であるが、そのどこにもおかしなところはあり、それを常にあらためていくことが大切であるはず。どこのセクションが悪いというのではなく、どのセクションからも改善に向けた意見、提案が常にあってしかるべきである。

昨今、議員の給与のあり方が見直されているが、こういうことなど各地方自治体で個別にどんどん考えて実行していくべきである。なのに、どうも日本全国横並びの風潮を感じずにはいられない。


民主主義に関しておかしなことを是正していくのが政治である。

情報をどう扱うか、その方針

尖閣諸島の衝突問題。
ビデオを政府が公開すべきだったかどうだったか問われている。野党は国務大臣の辞任を要求している。政府は「行政」の問題とかなんとか言っている。


大きな問題は、今回のような場合、どういう方針やきまりで情報の公開の有無が決まり、それはいつ頃公開されるのか、という「情報公開」に関する基本的事項がどこまでしっかりきまっているか、ということなのである。

そのへんがきちっとしていれば政府側関係者から「公開しておけばよかった」なんていうコメントはでてこないだろう。また、国務大臣の辞任にも直結しないだろう。

日本は二度と戦争を起こさない。その誓いのためには「情報」に関する扱いは国民誰もが納得できるようにしておかなければならない。

そして余談になるが。
今回のこの騒動からも日本の骨がしっかりしていないことがうかがえる。「元気な日本」とか「強い日本」とか選挙の時には言うが、選挙が終わればすっかり忘れているようだ。骨がないのに元気になれるわけがないのである。

何でも言える社会

自身が本当に心で思うことや考えを言えること。そういうことができる社会であることが大切だ。また、他の人が発言や記載することの本質を理解しようとすることも大切だ。

できていないことの方が多いのが今の社会だ。

風変わりなものをすぐに奇異の目で見て、そしてそれを排除しようとする。
自分で見聞きして理解できないものがある時、それを表層で片付けている。本当はその裏にさらに重要なことがあるにもかかわらず。

まちづくり

「まちづくり」という言葉があらたまってかしこで聞かれる。私も使う。

この「まちづくり」とは何だろうか。ふとそう思う。

まちは人の集まる場所だ。
そこに大切なのは次のことだろう。
・人同士が支え合うこと
・各自が能力を発揮すること
・上記を育む環境を整備すること

行政等に主に求められていることは上記3点目だと思う。


建物よりもその中で活動する「人」が大切であることはいうまでもない。が、そんなことを忘れてしまうこともよくあるだろう。


「まちづくり」

生物の進化のようなものだろう。





就職試験

昭和52年に比較し高校生の求人倍率が全国的に1/10になったとのこと。そのため高校生が夏休み返上で就職の面接の練習をしているという話。
姿勢とか言葉遣いとか声の大きさだとかを担当の先生に指導を受けている。

私はこのような練習が生徒に下手な厚化粧をさせているようでならない。
化粧をするなら、必要最小限の薄化粧か、または化粧は不要なのである。

普通の礼儀があればいい。それがなければ今から心がければいい。そう。礼儀は「心から」でるのであり、それは日々からなのである。それを生徒に伝えるべきである。その場しのぎの礼儀など大人にはばればれである。

そもそも本来、就職試験は企業と個人が対等な関係にあるべきだ。もちろん簡単にそういう関係はできないが、少なくともそういう意識を大人達は持つべきである。個人の潜在能力は無限であり、それを生かすということはどういうことなのかを企業も先生も個人も考える時である。

ちなみに、
今大人達が描いている「就職」は過去のもののような気がする。これからは新たな産業をつくることそのものが一般的な仕事であり、「創職」なのだと思う。

これからの日本

メモとして書き留める。

(1)地域に創意と工夫を育むこと。
地域の自然環境に合った家族、コミュニティを重視した社会。どうすればいいか地域自身が考え実践すること。

(2)国際協調主義。
自国の利益を守りつつも他国とのバランスを考える事。世界のトップになるとしたら考え方(戦争放棄など)でトップになるべきである。

(3)政府は対国政策を強化し、国内のことは極力地域に任せる。国内のことは地域間の格差(悪い格差のこと)の是正のみにつとめる。

(4)差別や偏見を無くしていく努力をすること

(5)弱者をいたわる社会でること


自然を感じること

2010年夏。
天気予報の外れが多いそうだ。
気圧が不安定なため、気象庁の最新の機器をもってしても難しいといういことである。

予想しない豪雨により被災する。
普段はない気温により熱中症になる。
こんなようなことが多い夏なのである。

こんな天気予報の外れにクレームを入れる人もいるそうである。
「洗濯したら雨になってしまったじゃないか」など。

自然災害の場合、その予想や実態に関する情報提供にに関して問題視される。
それはひとつの側面から考えなければならないこととして良いだろう。ただ、もっと個人の自然に対する洞察力や想像力、感じ方について反省するべきだ。

前述の不安定な気圧の変化、機器では感じれなくても生身の人間にはわかることも多々あるのだ。それこそ毎日空を眺めれるし、風を湿度を温度を感じれる。こういったことも重視すべきだ。

文字や映像による情報ではなく、自分が肌で感じる情報に対してどのようむ向き合っているのか。このへんについても常に言及することだ。



これからは自治力

最近、TVで国政関連のニュース等が出てくるとチャンネルを替えます。何故なら、聞いているのが嫌だからです。何故か?何が本当で何が本心なのか何もわからないからです。

現役政治家が自分を坂本龍馬になぞらえて発言していましたが、彼は何を考えているのでしょうか?坂本龍馬は命をかけて事に当たっているわけです。そのような政治家はいるのでしょうか?

命をかける覚悟を持っている人を私は政治家といいます。命を粗末にするというのではありません。政治家が正義と信念で事にあたる以上、そこには必ずそれを拒もうとする人間が出てくるからです。


さて、話が早速それてしまいました。

今、日本で国レベルでも地方自治体レベルでも個人レベルでも問われているのは「自治力」だと思います。

自治に関するノウハウを持ち、そして「行動」することです。



市民、住民が地域で暮らすために必要なことを自ら議論し考え実践することです。

しかし、行政レベルから見聞きする話は違います。
なんだかんだいっても上を見ています。周囲を見ています。その見る行為が「参考」ではなく、「中心」になっているのです。行政レベルでは「中央集権」「全国金太郎飴」という回路なのでしょう。「体質」とかではなく「回路」になっているので一旦切らないと修正できないのです。


「自治力」とは基本的にはその地域のオリジナルです。オリジナルの行動・実践です。これをどのレベルのどのような組織や個が行なって行くかがこれからの日本社会の動脈づくりだと思います。
 
 

テーマ:これでいいのか日本 - ジャンル:政治・経済

最低賃金設定について

労働者の最低賃金の設定が時々引き上げられる。

設定の仕方に問題があると思う。最低賃金時給○○円、という設定の仕方だ。


日本が国民に対して何を保っていこうとするのか、だ。

最低賃金時給○○円とすることで、どうなるか?

雇用主は5時間/日×5日/週だけ雇うとする。
これで労働者は自立して生活していけるのだろうか?
1日5時間働くということは、それで1日潰れるのである。足りない人は夜や他の時間も働いているのだろうが、それを標準にしてはならない。

つまり。
まずは8時間/日×5日/週の人の最低賃金を自立した暮らしができる、と想定できる範囲に設定すべきだと考える。

では、自立した暮らしとは何か?
ここを明らかにすることが「日本」として民を国に所属させるための責任である、と思う。憲法をどう捉えているか、である。


最低賃金時給○○円。
ともかくこの設定の背景があまりに短絡的だと思うのである。
別途話をするが、日本の社会保障をどうするか、なのである。「雇用」「暮らし」である。年金制度だってまだまだおかしい。定年しても年金が出ない制度なんでおかしすぎる。それなのに皆さん大きな不満もなく定年後に職を探す。こんなことではいつになっても日本の政治はよくならない。「天下りをなくす」なんていったって、定年後に年金が出ない社会じゃあ、なくなるわけがない。


話があっちいったりこっちいったりするが。

今の日本は「だめだ」という政治家は多いが、根っこの問題と対策について話ができる人は誰もいない、というかお目にかからない。
国民が「協力したい」と思えるものがないと国は成り立たない。





所謂先進国が考えなければならないこと

"先進国"という表現も見るところから見ればおかしな表現であろう。良い事をばかりを先に進んでいるとは言いがたいからだ。ここでは成り行き上、便宜的に先進国と呼ぶ。

さて。
先進国が今考えていかなければならない最優先テーマは「世界のバランス」であると思う。
今日の先進国の繁栄は非先進国無くして成り立っていない、ということに私はこの歳になって気がついたからだ。

ではバランスとは何か?
この価値観を世界で統一するのは困難であり、またはシンプルなのであろう。ひとりひとりが人間らしく暮らせることを目指さなければならない。

どの国に住んでいる人も「我が国が一番」と思えれば良い。それはGNPとかそういうものではないはずだ。他の国と比較して「良い」というのではない。絶対的価値観で「良い」と思う事である。

世界のバランスを忘れて個々に国々が過剰な利潤を追求すれば、いつか世界は地球環境的に滅びてしまうと想像する。

世界のバランスをきちっと考えながら行動できる国。そんな国を「先進国」としたい。



テーマ:政治 - ジャンル:政治・経済

民主主義はまだまだだ

日本は民主主義というが、まだそれは確立されたものでもないし、完全に確立されるわけでもない。民主主義の基本は「草の根」であると思う。日々暮らしていく視点と現場から、より良い社会のために必要な行動を起こしていく、そのことがより多く発生することが大切だと思う。

学校で「民主主義」について学んだ。しかし、それはごく表層であり、大人になって社会で働き学ぶに従い、多くの矛盾がわかってくるのではないだろうか。

そんな矛盾に背を向けて「きまりだから」「民主主義だから」「法律だから」なんてやっているのが大半の大人達ではないか?

ひとつの例として国会のあり方がある。
衆議院と参議院で議論することに本当に意味があるのか、である。とってつけたような意味ではない。本当に社会が良くなるための意味である。与党、野党もおかしい。いくら議論しても結局与党の意向が数と組織優先主義で通ってしまう。議員はよくも寝ないで議場にいるものである。結果の見えている議論をして空しくないのか???

首相がころころかわり、基本方針もころころかわり、そんな中で「駄目になっていく日本を再生」と首相を先頭にその周辺が声をあげる。しかし、一体何が駄目になっているのかきちっと説明する人もいないしできる人もいない。本当に駄目な部分は私たち市民の身近にあり、それは何十年もかけて修正・構築していかなければならないことなのではないか?それは草の根からくるまちづくりや自治や政治であり、自由と平等を守る意志と行動などであると思う。



«  | HOME |  »

プロフィール

中山慶一

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。