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2019-11

わかる、ということ

人間ドックで血管の老化の測定をし、その結果の説明を医師から受けた。医師は3つの血管の標本を私に触らせながら説明をした。

私は動脈硬化など血管が固くなることを今までよりも確かに恐ろしく感じた。
3つの標本のうち1つの硬化が進行したものは下手をすると折れてしまいかねない堅さなのである。こんな血管が体内で機能するのかと思うとぞっとするのである。

「動脈硬化になります」と生活習慣の悪い人はよく言われるだろう。血管が固くなれば体に悪いことは論理的に理解しているわけである。ただ、どのくらい悪いのか本当にはわかっていないのである。

学校教育でも仕事でもなんでも同様だと思う。
一口に「わかっている」「理解している」といってもそれがどの程度にものなのかは本人も他人も追求しないとわからないのである。さらに、わかってほしいと思った時、この現実をわかっておかなければならない。またさらに、この「わかっておかなければならない」ということ自体もわかっていないとならない。こんなふうに繰り返していくと「わかる」といういことは延々に繰り返される確認や検証であることに気付く。

調和は不調和の集まりからできる

 「調和は不調和の集まりからできる」という話をある映画のお茶のシーンで聞き、心に残った。また、同様なことを別のシーンで聞いた。RCサクセションのボーカリスト忌野清志郎さんを慕う人が彼を「素直は曲がっている」と評した。

 調和のとれたものやとても多くの人に受け入れられたものなど、それらは最初からそうではなかったということである。最初は誰も見向きもしなかった。最初は誰も考えなかった。最初は誰も仲良くなかった。最初は誰も受け入れることができなかった。

 考えてみれば特別なことではない。ある仲間の中にある日1人が入ってきた。その1人によって仲間の関係は如何様にも変化していくだろう。

 私たちは日頃ほとんどの場合、既にあるものの中に新たな何かを受けると拒否反応を示すのではないだろうか。人によっては「拒否」は該当しないかもしれないが、そういう人は希少であろう。

 「拒否」は自然な事だと思うが、そこから受け入れるにせよ受け入れないにせよ変化していくこともまた自然であり大切なことだと思う。
 この変化の有様は様々であると思う。だからどうあらねばならない、というものはないだろう。ただ、問題なのは「変化」という言葉が辞書にない場合である。そういう仕組みや規則や社会はやがて駄目になるだろう。それも否定はしないが。

 何かの決めごとを作ればそこには必ずその範疇に入らない人やものが出てくるのである。それを単なる「違和」としてはならない。99%が否定しても1%の人がその「違和」を見守り続ける状態が望ましいと思う。

 私は何が言いたいのだろう?自分にあらためて問う。
 昨今の「このままでは日本は駄目になる」というコメント。
 このようになった原因もこのような状態の打開も今回のテーマにあると私は思っている。

 周囲を見回し同じことをしていれば安心し満足していた日本。今、それを卒業する時代なのだと思う。
 

 

何でも言える社会

自身が本当に心で思うことや考えを言えること。そういうことができる社会であることが大切だ。また、他の人が発言や記載することの本質を理解しようとすることも大切だ。

できていないことの方が多いのが今の社会だ。

風変わりなものをすぐに奇異の目で見て、そしてそれを排除しようとする。
自分で見聞きして理解できないものがある時、それを表層で片付けている。本当はその裏にさらに重要なことがあるにもかかわらず。

まちづくり

「まちづくり」という言葉があらたまってかしこで聞かれる。私も使う。

この「まちづくり」とは何だろうか。ふとそう思う。

まちは人の集まる場所だ。
そこに大切なのは次のことだろう。
・人同士が支え合うこと
・各自が能力を発揮すること
・上記を育む環境を整備すること

行政等に主に求められていることは上記3点目だと思う。


建物よりもその中で活動する「人」が大切であることはいうまでもない。が、そんなことを忘れてしまうこともよくあるだろう。


「まちづくり」

生物の進化のようなものだろう。





就職試験

昭和52年に比較し高校生の求人倍率が全国的に1/10になったとのこと。そのため高校生が夏休み返上で就職の面接の練習をしているという話。
姿勢とか言葉遣いとか声の大きさだとかを担当の先生に指導を受けている。

私はこのような練習が生徒に下手な厚化粧をさせているようでならない。
化粧をするなら、必要最小限の薄化粧か、または化粧は不要なのである。

普通の礼儀があればいい。それがなければ今から心がければいい。そう。礼儀は「心から」でるのであり、それは日々からなのである。それを生徒に伝えるべきである。その場しのぎの礼儀など大人にはばればれである。

そもそも本来、就職試験は企業と個人が対等な関係にあるべきだ。もちろん簡単にそういう関係はできないが、少なくともそういう意識を大人達は持つべきである。個人の潜在能力は無限であり、それを生かすということはどういうことなのかを企業も先生も個人も考える時である。

ちなみに、
今大人達が描いている「就職」は過去のもののような気がする。これからは新たな産業をつくることそのものが一般的な仕事であり、「創職」なのだと思う。

これからの日本

メモとして書き留める。

(1)地域に創意と工夫を育むこと。
地域の自然環境に合った家族、コミュニティを重視した社会。どうすればいいか地域自身が考え実践すること。

(2)国際協調主義。
自国の利益を守りつつも他国とのバランスを考える事。世界のトップになるとしたら考え方(戦争放棄など)でトップになるべきである。

(3)政府は対国政策を強化し、国内のことは極力地域に任せる。国内のことは地域間の格差(悪い格差のこと)の是正のみにつとめる。

(4)差別や偏見を無くしていく努力をすること

(5)弱者をいたわる社会でること


これからは自治力

最近、TVで国政関連のニュース等が出てくるとチャンネルを替えます。何故なら、聞いているのが嫌だからです。何故か?何が本当で何が本心なのか何もわからないからです。

現役政治家が自分を坂本龍馬になぞらえて発言していましたが、彼は何を考えているのでしょうか?坂本龍馬は命をかけて事に当たっているわけです。そのような政治家はいるのでしょうか?

命をかける覚悟を持っている人を私は政治家といいます。命を粗末にするというのではありません。政治家が正義と信念で事にあたる以上、そこには必ずそれを拒もうとする人間が出てくるからです。


さて、話が早速それてしまいました。

今、日本で国レベルでも地方自治体レベルでも個人レベルでも問われているのは「自治力」だと思います。

自治に関するノウハウを持ち、そして「行動」することです。



市民、住民が地域で暮らすために必要なことを自ら議論し考え実践することです。

しかし、行政レベルから見聞きする話は違います。
なんだかんだいっても上を見ています。周囲を見ています。その見る行為が「参考」ではなく、「中心」になっているのです。行政レベルでは「中央集権」「全国金太郎飴」という回路なのでしょう。「体質」とかではなく「回路」になっているので一旦切らないと修正できないのです。


「自治力」とは基本的にはその地域のオリジナルです。オリジナルの行動・実践です。これをどのレベルのどのような組織や個が行なって行くかがこれからの日本社会の動脈づくりだと思います。
 
 

テーマ:これでいいのか日本 - ジャンル:政治・経済

最低賃金設定について

労働者の最低賃金の設定が時々引き上げられる。

設定の仕方に問題があると思う。最低賃金時給○○円、という設定の仕方だ。


日本が国民に対して何を保っていこうとするのか、だ。

最低賃金時給○○円とすることで、どうなるか?

雇用主は5時間/日×5日/週だけ雇うとする。
これで労働者は自立して生活していけるのだろうか?
1日5時間働くということは、それで1日潰れるのである。足りない人は夜や他の時間も働いているのだろうが、それを標準にしてはならない。

つまり。
まずは8時間/日×5日/週の人の最低賃金を自立した暮らしができる、と想定できる範囲に設定すべきだと考える。

では、自立した暮らしとは何か?
ここを明らかにすることが「日本」として民を国に所属させるための責任である、と思う。憲法をどう捉えているか、である。


最低賃金時給○○円。
ともかくこの設定の背景があまりに短絡的だと思うのである。
別途話をするが、日本の社会保障をどうするか、なのである。「雇用」「暮らし」である。年金制度だってまだまだおかしい。定年しても年金が出ない制度なんでおかしすぎる。それなのに皆さん大きな不満もなく定年後に職を探す。こんなことではいつになっても日本の政治はよくならない。「天下りをなくす」なんていったって、定年後に年金が出ない社会じゃあ、なくなるわけがない。


話があっちいったりこっちいったりするが。

今の日本は「だめだ」という政治家は多いが、根っこの問題と対策について話ができる人は誰もいない、というかお目にかからない。
国民が「協力したい」と思えるものがないと国は成り立たない。





所謂先進国が考えなければならないこと

"先進国"という表現も見るところから見ればおかしな表現であろう。良い事をばかりを先に進んでいるとは言いがたいからだ。ここでは成り行き上、便宜的に先進国と呼ぶ。

さて。
先進国が今考えていかなければならない最優先テーマは「世界のバランス」であると思う。
今日の先進国の繁栄は非先進国無くして成り立っていない、ということに私はこの歳になって気がついたからだ。

ではバランスとは何か?
この価値観を世界で統一するのは困難であり、またはシンプルなのであろう。ひとりひとりが人間らしく暮らせることを目指さなければならない。

どの国に住んでいる人も「我が国が一番」と思えれば良い。それはGNPとかそういうものではないはずだ。他の国と比較して「良い」というのではない。絶対的価値観で「良い」と思う事である。

世界のバランスを忘れて個々に国々が過剰な利潤を追求すれば、いつか世界は地球環境的に滅びてしまうと想像する。

世界のバランスをきちっと考えながら行動できる国。そんな国を「先進国」としたい。



テーマ:政治 - ジャンル:政治・経済

順位は一見わかりやすいが?

日本は、温暖化ガス削減において世界のトップを目指す目標を立てたらしく、その実現のために各種の政策を展開する模様だ。

しかし、私は何か釈然としない。

環境破壊の背景はもっと複雑で深刻だ。先進国が自由競争のもとに人間の欲を追求してきた結果が現在だ。そこのところにもっと言及すべきではないか。

世界のトップになることが真の目標ではないだろう。地球的環境を守るために私たちは暮らしの根本を改めなければならない。そういう反省があってそこに人々の行動が伴うものだろう。

日本の社会は順位競争や他者(国)との比較など相対的なものには反応し易く行動し易いが、絶対的なものにはことごとく弱いような気がする。

島国の小国日本。
オリジナリティーが求められていると思う。

違うほうから見る

今日、いつも通る駅前の一度も歩かなかった
道に寄り道した。

そこから駅前を見た。

その印象はいつもと全く違ったものだった。


最近、妻の帰りが遅く、家事(掃除、炊事)
を頻繁にやるようになった。
妻は主婦ではないが、主婦の気持ちが少し
わかったような気がする。
孤独であり、大変である。


聞くのとやるのとでは大違いだ。
自分の気持ちが。


何でも経験できればいいが、
そういかないこともある。
そんな時は誰しも想像するわけであるが、
そういう想像の時は前からだけでなく
他の方向からも想像すべきだ。

そんなことを駅の広場で思った。

先進国???

地球温暖化、核不拡散、経済問題等々について
世界で議論されている。
サミットとか国連とかそういう場で。
先進国主導で。

地球温暖化で所謂先進国でない新興国から
「温暖化になったのは先進国の責任であるから、
もっと削減を大きくすべきだ」
との意見があり、先進国と折り合いが付かない。

新興国の意見は最もであろう。

世界・地球はどこかで成り立っているわけではない。
それぞれが機能してやってきた。
先進国の繁栄は先進国以外のうえになりたってきた。

世界・地球の各国・各人が平等でなければならない。
その理想に向かわなければならない。理想とは
単なる理想ではなく、向かわなければ理想にならない。

ところがどうだろうか。
先進国は自分たちを勝手に先進国と名乗り、
さも世界で共有したしような場を取り仕切る。

国連でさえ常任理事国などという見るところから
見れば全く納得のいかない組織なのだと思う。

今、世界・地球に共通する問題に取り組む時、
より多くの国の参加と議論が必要ではないのか。

食べることもできない人がいれば、
何百万ドルもお金をかけて無くても生きて行ける
ものを買う人がいる。
これはやはりどう考えてもおかしいのである。

先進国。自国で二酸化炭素を排出していなくても、
他国の排出に関わっていないのか?そのへんはきちっと
考えられているのだろうか?

これからは役割分担と平等へ向かう社会なんだ。
どこかの国が何かに秀でてイニシアチブを取ろう
としている間は温暖化問題は解決に向かわない
だろう。




減点主義

ある公務員のトップの言葉。
転勤の際の挨拶である。
「何事もなくて何よりです」
という旨のことだった。
これは私が知人から聞いた話だが。

「何事も」というのは所謂事件のことではない。
「問題」のことである。
このトップ、要するに減点が少なかったことを
自画自賛しているのである。

何か新たな取り組みをしようとすれば、
そこには数々の問題が生じる。成功すればいいが
失敗も当然ある。

失敗は減点される。
だから失敗しないようにする。
だから最終責任をおわないことを行うか、
失敗しないよう何もしないのである。

これで行政が良くなっていくのだろうか?


さて。
昨今、○○大臣辞任などの話が多々ある。
いずれも何かしらの不適当な行動による。
このことは当然なのであるが.........。

本来、成果で判断されるべきことがもっと
あるべきではないか。
「何かを行いこういう効果や道筋をつくった」
とか
「目標である○○を達成できなかった」
とかである。

マニュフェスト(政権公約)がいつのまにか
盛んである。
しかし、その公約を達成できなかったらどうするのか、
についてマニュフェストに記載はあるのだろうか?
100%とはいわない。失敗することもあるだろう。
60%でもいいと思う。そこをクリアできたかどうかが
もっともっと問われるべきだ。

失敗、問題、失態などをチェックすることはもちろん
重要なのであるが、もっと政策や実施した事項に関する
内容をチェックしなくてはならない。その結果によって
「辞任」する知事や政治家、行政トップがいても
いいのではないか。

通常は「選挙」がこの役割を果たしているのだろう。
市民がシビアにならない限り、政治は変わらない。
市民が減点主義に走れば、政治もそうなっていく。

自立力

今、日本に必要なのは
「自立力」だと思う。

現状を悲観しない、現状に甘んじない。
そんな自立力をつけ養うことだ。

実は教育の根本もこのへんが?である。

考えてみよう。

20世紀後半は何事も引かれたレールのうえに
なりたっていた。
「○○さえすれば」
というものがあったのだ。

社会をつくっていくこと=レールづくり
が大きかったのではないだろうか。
しかし、=レールづくり、ではなく
=レールをつくる力
なのではないだろうか。

情報通信の発達により変化していく
国際社会。

変化に対応する力、レールをつくる力
が大切なのだと思う。

この力が常にわき上がっていれば
なんとかなるさ、日本は。

だから、わきあがる力を止めてしまう
ようなことをカットしていく必要が
ある。
それは何だろうか?

実はまず自分自信の中にある。
誰かをどこかに要因を求めてもそこを
ずっと辿ると自分にたどり着くだろう。
そんな要因だから、お互いに責め合い
が続くだけなのだ。




弱みにつけこまない

人は誰にも強いところ弱いところがある。
人に限らず組織もだ。

人も組織も他と何かしら関係を持つ。
その時、弱みにつけこまないことだ。

「何をあまっちょろいことを」という
感じを持たれている方もいらっしゃるだろう。

ただ、良い関係のために必要なことだと思う。

関係は相互理解、相互協力だ。
そこのところを努力することなしに進んでは
最後に何も残らないだろう。

弱いところをカバーしてあげるくらいの
強さを持とう。

2009 何が大切かを知る年

金融不安で経済不況に入った。

仕事がない。消費がない。

皆に仕事があって、何でも買えればハッピー。
と、いいたいところだが、本当にそうだろうか???

何でも買えるような状況が、地球温暖化を進めて
きたのではないか?
世界の悪い意味での格差を広げてきたのではないか?

そろそろ先進国は
「発展」の内容を考えなくてはならない。
儲かって高層ビルが建つことを喜ぶ時代は終わったのだ。
人間の欲は尽きないが、その欲に歯止めが必要な
時代だ。

弱肉強食と言われたって自然の摂理はバランスを
保つべく「欲」に限りがある。
「欲」が尽きないのは「人間」だけだろう。

どーする、人間。
「欲」を変えることもできるのが人間と信じる。




心に感じるものを伸ばす

今、某民間高校の講師に関わっている。

生徒の心に感じること。
そんなことが多くあればいいと思う。

ある講義の内容。
それが教室の30人に感じなくてもいい。
誰か一人に感じればいいと思う。

ある講義がAさんに、そしてある別の講義
がCさんに。
そういうことでいいと思う。

月並みな言い方だがひとりひとりの個性が
伸びること。
これからの日本にとって重要な事と思う。
もちろん日本のために個があるわけでも
ないが。世界のための個でもいい。

戦後、平均点の高い人が尊重される社会
で進んできたのではないかな。今、そのこ
とがかしこに歪みを出して来ていると思う。
見た目重視、体裁重視の社会が。

人間、一生懸命取り組めるものがあれば、
それを土台にいろんなことが成長、成熟
していくと思う。
取り組むものがないのだろうか。
そんなことはないはずだ。
取り組むものがあっても(潜在的にあっても)、
それを発揮し難い何かが日本の社会に
もったりと漂っているようでならない。

「心あらばやってみなはれ」
こうありたい。









テーマ:教育 - ジャンル:学校・教育

人を「人」とは本当に漢字は良く描いたものだ。

支え合うという事。

人は自分以外の誰かに支えられ、また、誰かの支え
になっていたいと思うものだろう。
あたりまえのことだと思うが改めてそう思う。

昨今、様々な奇異な事件が起きている。
その根本的な要因にこのどちらかの
支えを失ったところが
あるのではないだろうか。


知識なんかくそくらえ

どんなに物知りな人でさえも、世の中知らないことのほうが
多いのである。

知識があることは良いことばかりではない。
あることによってかえって物事を間違った方向に導いている
ことも少なくない。

知識をつけるな、ということではない。
知識をつけても謙虚さを失ったら駄目になってしまうと
いうことである。

1+1=2
という知識を持ちつつ、
1+1は本当に2なのだろうか?
という疑問を持つことが大切だ。

アメリカの大統領の名前を知っていることよりも
アメリカを肌で感じていることのほうが大切だ。

信じられないエベレスト登頂

中国がオリンピックの聖火をエベレストの頂上に
持っていくことをイベントとしてやるという。

一体何を考えているのだろう。

相当のお金と人を使って達成に向かうのだろう。
自然まで使うことができると思っているのだろうか。

オリンピックは安全な場所で選手が人間として
持っている運動能力を純粋に競うところが魅力だ。
ところがそれを忘れ、このような危険をおかすイベ
ントに走る。

イベントが奇抜であればあるほど心配である。
安全とか公平さとかの根本的なところがなって
いないのではないかと勝手に危惧する。





オリンピックとは

日本の誇り

事故を起こしたイージス艦の艦長の
記者会見でのコメントをTVで聞いた。
「私に責任があると思います」

「思います」。
ここに日本が失ってきたものが
集約されているようでならない。

艦長は海にただ一つ浮かぶ船の最高
責任者だ。サッカーの監督が敗戦の
コメントでこのように結ぶだろうか?

重箱のすみをつつくと思われるだろう。
しかし、こうしたところに本人の
真意が現れる。新聞では「思います」
は記載されていなかったが。



日本の誇りは
「正々堂々」
だと私は思う。

言葉の解釈論をするつもりはない。

常に中身で勝負。
結果を率直に受け止め潔く負けを
認める。

ところが、昨今はこの正々堂々に
めったにお目にかからない。

目先の結果を出さんがための
行動がまかり通っている。
言い訳も多い。

技術の日本と言われてきた。
その根幹は正々堂々だと
思う。

私たちは
正々堂々を見抜けなければならない。
周囲の雰囲気などに惑わされたり
流されたりして本質的に大事な
事や人を失ってはならない。

政治に今求められているものも
同様だと思う。
正々堂々と行動する者が
それを持続できるようでなければ
ならない。本来、そのような環境
になっていくことが大切である。

家族の父が家族に何かあった場合
「私の責任です」などとそもそも
コメントしないだろう。父=責任
なのだから。
そういう意味で、組織の長たるもの
責任に対する自覚があまりにもなさ
すぎる人が多いと感じる。

そもそも「責任あるか、ないか」と
やっている時点で、その人には大し
た役割がなかったということなので
ある。

もちろん正々堂々は生半可なものか
らは生まれない。




オリンピックとは

あの5輪のマークは五大大陸を現すという。
スポーツを通して世界が友好することが
オリンピックの最も大切な意義だと思っている。

しかし、いつのまにか国と企業と個人の「利益」
に走っている。

記録は破られるためにある。
今、世界一だって、将来必ず破られるのだ。
記録を作ることよりもその時にどれだけベストを
尽くせるかが、大切ではないのか。

オリンピックの開催は世界で万遍なくやって
ほしいものだ。
参加国でお金を出し合って、開催国で開催
できるように協力するのだ。

こんな逸話がある。
メキシコオリンピックサッカーの3位決定戦。
地元メキシコ対日本だ。
日本が2-0とリードしている後半の終わり
ころ、地元の観客から「日本、日本」と
声援が起きたそうだ。
対戦相手の日本に対してだ。
全力で反則せずにプレーしている姿に観客が
感動したのである。
国を超えた人間同士の損得のない触れ合いだ。

もうす北京で開催される。
素敵な大会になることを願う。



思いやる気持ち

自分でも反省することは多々ある。

人を思いやる気持ち。
最近、これが随所でかけているようでならない。

自分の都合のみを優先する。
それでも、その都合に合わせてくれる人がいるから
あまり気にしなくなるのか?
情報化時代では、人との出会いの場も多い。
だから、希少な出会いに無頓着になるのだろうか?

私は仕事も同じだと思っている。
たとえなんと言われようが。
相手の気持ちも考えずに強引に進めたり
折衝したりする人が多い。
相手のことも考えてのことならいいのだが。
バランスの取れた強引な人にはなかなかめぐり
合わない。ほとんどが身勝手であり礼儀礼節に
ことを欠いている。

うわべだけのことも多い。

年齢や地位を超えて
人をひとりの人間として思いやることが
できる人。
とても難しいことなのかもしれない。
しかし、簡単なことでもある。
お互いに思いやりながら信頼関係をつくる。
これができれば強くて逞しくて素敵な社会に
なるはずだ。



個人を考える時代

個人を考える時代だと思う。

「○○会社の××さん」
と社会ではよく自己紹介する。

しかし、本当は
「××です。今は○○会社です」

私はこれが本来だと思う。


確かに○○会社でなければできないことが
沢山ある。しかし、最後は仕事も××にかかって
いるのではないか。


社会は肩書きを重んじる。であれば
その肩書きこそ「名前」なのではないだろうか。


会社には一般的に定年がある。
定年になったら○○はなくなるのだから。


私は個人とプライベートでも仕事でも
おつきあいしたい。
それが楽しいからだ。面白いからだ。
○○会社でなく、あくまで××なのだ。


話は変わるが、
「正社員になったほうがいい」という
言葉をよく聞く。
しかし、これは税金や年金を確保するための
理論にしか思えない。

正社員でない=いろいろ不利、損
というが
本当にそうなのだろうか。

私には偏見としか思えない。

個人を大切にし、それを複数でいろいろなところ
で生かして何が悪い?
問題は生かし方であって、正社員でなからでは
ない。

個人の勝手にしろというのではない。
個人を尊重できる社会は
個人の力を導きだし、それは良い社会を
つくる。

強い正義は弱い個人を支えるところに生まれる。

得体の知れない組織のせいにしていては
物事は良い方向に進まない。







協働について

行政と民間がいっしょに何かのプロジェクトを行う時、
「協働でやりましょう」というような話が出てくる。

協働することに相乗効果を期待しているわけである。

私も「協働」にチャレンジした経験はある。
その経験から言えること。
それは、生半可な気持ちでは取り組めないということである。

いっしょに議論をして協働をしているような気になるのである。

目的を常に共有し、その目的のために自己変革(組織や自分)
しなければ協働は成立しないと結論する。

自己変革なしに、既存のノウハウを結集して何か良いことが
できるかといえば、そんなことはいえない。
持っているノウハウも問われるが。
いずれにせよ取り組むプロジェクトはあくまで新たなものであり、
既存のノウハウは活かせても新たなノウハウを蓄積しなければ
ならないのだ。

自己変革のない協働は逆に弊害を生む。
自己の事情を優先するからだ。
協働に関わる組織や個人が皆このような状態であるとき、
妥協の産物ができあがる。
協働の中に「利用者」がいれば、まだ救われる可能性が
あるだろう。
しかし、大抵「利用者」はいない。
妥協の産物は利用者の心に響かない。

「協働」をするのであれば、
するにあたっての明確な約束事(ポリシーや方針)
を決めることである。大げさにいえば憲法である。



経験と冒険

経験は生かされるが時に邪魔をする。

人生とはなんだろうか。

心に無理を強いて何があるのだろう。

道を切り開かなければ生きていけない。

教科書はあくまで教科書にしかあらず

「教科書問題」なんていうのが時々浮上する。

これを教育のバイブルと一般的には考えるのだろう。
しかし、私には「参考書程度」である。

考えてみればわかる。
全ては実は「本当なのか」という疑問から出発する
ことなのだ。

例えば1+1=2

こいつを疑ってかかることはとても大切なことなのだ。

まあ、このように疑ってばかりいると現存の社会に
なかなか対応できないことにはなるが、
そういう人材の輩出は一方で大変重要なことなのである。

そもそも先生は何のためにいるのか?
ということにも帰結する。

私は生徒に先生の考えを押し付ける必要はないが、
先生の考えを大いに示していいと思う。
それが「人」が先生であることの所以である。

相変わらず偏差値教育がされている。
既存の社会にスムーズに乗っかる人間を作るためだ、と
私は思う。

ともかく親はもっともっと賢くなるべきだ。
力強く生きるための知恵を子供に付けさせるべきだ。

教科書や学校はこのためのあくまで一部だ。



固定概念にとらわれている

学校教育。
ロシアでは小、中、高と同じクラスだという。
私は高校の3年間が同じクラスだった。

韓国では先生に挨拶しないことなんて考えられない
という。

教育に関して世界に目を向ければ、日本は
あまりに固定概念にとらわれているのではないか。

これまで日本において所謂高い水準の教育を
してこれたのは、6、3、3の教育制度なのだろうか?
実はぜんぜん違うのではないだろうか。
バックアップする先生や家族の情熱があったから
ではないだろうか。

今、この「高い水準」についても何をもって
いうのか考えなければならない。

さて、毎年クラスが変わるメリットとして
「いろんな人と出会うことができる」という
意見があった。
それも、そのとおりではある。
ただ、ずーっと同じクラスということは、
皆で仲良く協力しなければやっていけないと
いう協調力を養う面も多いにあると思う。
どちらを選択するかは学校次第だし、どちらを
選択しようと基本理念がしっかりしていなければ
うまくはいかないだろう。

いずれにせよ今の日本は過去の産物を
忘れるところに来ていると思う。

テーマ:教育 - ジャンル:学校・教育

基本は家族だ

毎日食卓を家族で共にする。
これが社会の基本である。

さて、今の日本はどうだろうか。
戦後の復興のため家庭を犠牲にしてきた方も少なくない。
その結果、経済的に先進国には追いついた。

しかし、一方で家族はどうなっているだろうか?
勤勉が美徳の日本は、最も大切なものを平気で
犠牲にしていないか?

日本の今の繁栄は、長い目で見ると
一過性のものでしかないのではないか、という
気がしてならない。

何が悪いと言う前に、まず家族を振り返るべきだ。
そして、国は家族をしっかりサポートしていかなければ
ならない。




テーマ:美しい国へ - ジャンル:政治・経済

自然にマッチした国づくりを

中越沖地震ではっきりわかった。
地震国日本においては核発電は撤廃すべきである。
理由は明快。
どのように対策を打っても放射能漏れを防ぐ
ことはできないからだ。自然は人の想像を上回る
という前提に立ってのことである。

島国日本。
この国にしかない自然環境がある。
それにマッチしない開発は今後絶対にしてはならない。

悪戯に海を埋め立てて高層ビルを立てている。
専門家は「全てを想定している」というだろう。
しかし、実際に事が起きた時は
「想定範囲外だった」という。

お金に目の眩んだ人種を如何に相手にしないか。
これが賢い市民、国民である。

では、そのように自然とマッチしていくべきか。
そのへんを想像力もって考えられるかどうかが
問題だ。これを考えられるようにするのが
教育である。

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