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2023-04

私と国道36号線

1半くらい前にあるところでお話した文です。
私と北海道の大切な関わりということで掲載します。


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 中学、高校と進むうち授業に追いつかなくなり、高校卒業の時は学年450人中お尻から3番以内だった。最後に受け取った通信簿にAからEランクまでの人数分布を示す紙が張られていたが、そのEランクの欄に表示された数値3のうちの一人が自分だとわかるのに時間はかからなかった。私の学習方法は参考書を読みながら一つずつ疑問を確かめていくものであり、教室の先生の話は頭にほとんど入っていかなかった。だんだん疑問を解決するのに時間がかかるようになっていった。マラソンでいえば途中の寄り道が多すぎてゴールした時は誰もいなかったような状態だったと思う。

 こんな私であったが北海道の大学に行きたかった。希望は地球物理学だったが、それよりもまず北海道に行きたかった。現役では当然のように受からなかった。私の高校で一浪は珍しいことではなく友人達と東京の予備校に通った。しかし、基本的な学力のない私には予備校にもついて行けず1年かけて受験した大学は全て落ちた。インベーダーゲーム全盛の年だった。

 さらに1年予備校に通ってもうまくいかない気がした。そこで、当時札幌で独身貴族だった叔父のところに居候、自宅浪人することにした。自分の環境をとことん変え、勉強に集中すること以外に道を切り開くことはできないと考えたのだ。自宅の和室で父にお願いした。父はただうなずいてくれた。ちなみに私は三人兄弟の長男である。

 札幌での二浪目は何もかもが日々新鮮だった。勉強だけでは大変だろうと、先に北大に入学していた友人が気遣ってたまに遊びに誘ってくれた。高校の友達からは何通も励ましの手紙をもらった。社会人ボート部の叔父には幾度か茨戸に連れていってもらった。多くの方に励ましてもらいながら、私は北大の図書館で自習した。秋の暗い帰り道、当時は札幌に沢山あった様々な喫茶店で持参した「宮本武蔵」を読むのが楽しみであった。

 3月4日二次試験の後、私はもしかすると駄目かもしれないと思った。発表までの二週間は覚悟を決める時間だった。叔父は駄目だったらもう1回チャレンジするよう言ってくれたが、私は先行して合格していた京都の大学に行く事にほぼ決めていた。もう浪人はしたくないと心の底から思っていたからである。父と母に手紙を出した。もし合格できずに帰る時は許してほしいというようなことを書いたと記憶している。

 発表当日の朝、既に出勤していた叔父に書き置きを残し、実家に帰る身支度をして合否掲示板に向かった。自分の番号があった。誰にどう電話したのか覚えていないが、ともかく実家に帰り母に会いたいと思った。心と体がそのようになっていた。

 千歳空港まではバスに乗った。バスは国道36号線を走る。札幌の街中を抜け、車窓には家もまばらになった野原が映ってきた。その時、自分のほおにつーっと何かが伝うのを感じた。窓の風景が目に入ってきたら勝手に目から流れ出てきた。それから国道36号線は帰省の時に何度か往復した。いつも何故か札幌の街中に入る時、ちょうど豊平川が見えてくるぐらいの時、心がすーっと落ち着いていくのを感じた。北海道の空気が自分に合っていると、その度に思った。

 今年の3月、父が8時間の心臓手術を受けた。母は「もう一度だけお父さんに家に帰ってきてほしい」と言っていた。手術翌日、麻酔から醒めた父の手を物心がついてから初めて握り「大丈夫だぞ」と励ました。一週間実家で母をサポートした。母に料理を作ったのも初めてだった。スーパーの買い物、昔はよちよち付いて歩いただろうが、今は、母の後ろ姿を「意外にしっかり歩いている」と感心して見ながら、私は買い物カゴを引いている。50年という歳月の流れを思わず感じてしまった。父も母も仲良く何とかやっている。叔父とは年に1、2回、叔母と妻と4人で一緒に食事をする。
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