個人の権利と義務
ある判決から考えることだ。
そのある判決は図のとおりだ。これは朝日新聞社のホームページの画面である。同様な記事は読売新聞の紙ベースでも掲載されていた。
この判決、それを伝える記事、どちらも私には納得いかない。
結論から言う。
このような道路に簡単にボールが出てしまう壁しか設置できていなかった小学校の責任であると考える。その壁の設定や管理が教育委員会にあるならば、教育委員会の責任であると考える。子どもやその親に責任が問われる意味が私にはよくわからない。
子どもではないが、徘徊した老人が電車に跳ねられ死亡した。その事故による損害賠償を電車会社から徘徊老人の子どもに請求したそうだ。同様なことが全国各地であるようだ。
本件で考える事は「個人の権利と義務」である。
これが日本でどのように取り扱われているかとりまとめることが容易ではないことはわかっている。解釈も個々にばらばらであろう。だから、本件のような裁判結果が出るものと思う。
個人が他人(親族であるかどうかの区別はない)に対してどういう権利や義務があり、また逆もどうであるか。これは個人の権利を尊重するのであれば必要最小限に止めなければならない。他人を監視する義務があるということは、そのぶん自分の時間を束縛されるということである。子どもが成人するまで親に一定の子どもの監督義務が生ずるのは理解できるが、成人後の監督義務は不要だと考える。成人後は1人の独立した成人であり、その社会的責任は誰かを通して存在するものではなく、本人にしかとりえないものと考える。
日本ではこの個人の権利と義務が曖昧だと思う。
そのことが弱者の存在を蔑ろにしていることにも繋がっていると思う。弱者になにかあればその家族に責任を負わせればすむという節がある。または、本来弱者のために社会的なあらゆる場面のバリアを取り去っていくことを進めて行かなければならないにも関わらず、そこを怠慢にし、家族に負担を強いているのである。
徘徊する老人は社会が見守っていかなければばらないのである。それが社会(国家)と個人との補完関係であると考える。
本件は本来社会が行政がやらなければならないことを、子どもとその親に転嫁したものだと考える。こうした判決を下す裁判官の思考能力の無さにもあきれる。前例を周到していればそれでいいだろうという精神が裁判官に働いているのではないだろうか。
小学校の校庭でのびのび運動ができない。そんな国に日本は成り下がりつつあるのである。
保育園児が近隣住人にはうるさく、保育園の開園ができないところがあるという。この件で住人がいけない、などの意見が見受けられる。これも、個人の権利と義務を蔑ろにしている事例だと思う。子どもの声はある年齢になるととてつもない騒音になるという研究結果もあるという。そのような騒音を我慢して住めというのはおかしい。逆に子どもたちを高い塀の中に閉じ込めてしまおうという対策もおかしい。これらは都市計画の問題、日本の人口分散政策の問題であるはずなのに、そこに言及しない。
まちは経済のためにつくるのではない。人のために人と人の交流のためにつくるものであると思う。そこには人の個人の権利と義務について常に考えるものがなければならないと思う。
<図>

そのある判決は図のとおりだ。これは朝日新聞社のホームページの画面である。同様な記事は読売新聞の紙ベースでも掲載されていた。
この判決、それを伝える記事、どちらも私には納得いかない。
結論から言う。
このような道路に簡単にボールが出てしまう壁しか設置できていなかった小学校の責任であると考える。その壁の設定や管理が教育委員会にあるならば、教育委員会の責任であると考える。子どもやその親に責任が問われる意味が私にはよくわからない。
子どもではないが、徘徊した老人が電車に跳ねられ死亡した。その事故による損害賠償を電車会社から徘徊老人の子どもに請求したそうだ。同様なことが全国各地であるようだ。
本件で考える事は「個人の権利と義務」である。
これが日本でどのように取り扱われているかとりまとめることが容易ではないことはわかっている。解釈も個々にばらばらであろう。だから、本件のような裁判結果が出るものと思う。
個人が他人(親族であるかどうかの区別はない)に対してどういう権利や義務があり、また逆もどうであるか。これは個人の権利を尊重するのであれば必要最小限に止めなければならない。他人を監視する義務があるということは、そのぶん自分の時間を束縛されるということである。子どもが成人するまで親に一定の子どもの監督義務が生ずるのは理解できるが、成人後の監督義務は不要だと考える。成人後は1人の独立した成人であり、その社会的責任は誰かを通して存在するものではなく、本人にしかとりえないものと考える。
日本ではこの個人の権利と義務が曖昧だと思う。
そのことが弱者の存在を蔑ろにしていることにも繋がっていると思う。弱者になにかあればその家族に責任を負わせればすむという節がある。または、本来弱者のために社会的なあらゆる場面のバリアを取り去っていくことを進めて行かなければならないにも関わらず、そこを怠慢にし、家族に負担を強いているのである。
徘徊する老人は社会が見守っていかなければばらないのである。それが社会(国家)と個人との補完関係であると考える。
本件は本来社会が行政がやらなければならないことを、子どもとその親に転嫁したものだと考える。こうした判決を下す裁判官の思考能力の無さにもあきれる。前例を周到していればそれでいいだろうという精神が裁判官に働いているのではないだろうか。
小学校の校庭でのびのび運動ができない。そんな国に日本は成り下がりつつあるのである。
保育園児が近隣住人にはうるさく、保育園の開園ができないところがあるという。この件で住人がいけない、などの意見が見受けられる。これも、個人の権利と義務を蔑ろにしている事例だと思う。子どもの声はある年齢になるととてつもない騒音になるという研究結果もあるという。そのような騒音を我慢して住めというのはおかしい。逆に子どもたちを高い塀の中に閉じ込めてしまおうという対策もおかしい。これらは都市計画の問題、日本の人口分散政策の問題であるはずなのに、そこに言及しない。
まちは経済のためにつくるのではない。人のために人と人の交流のためにつくるものであると思う。そこには人の個人の権利と義務について常に考えるものがなければならないと思う。
<図>

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