2017-08

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「自治」と「自治体?」

 「自治」とは読んで字のごとし、自らを自らの責任において律することをいう。これを前提に書く。

 私は学生時代、半年程度だがある自治寮に住んでいた。住人で作った規約のもと、寮に住み続けるために必要な事を住人が分担して実施するわけである。寮の場所・建物を提供してくれるのは大家であり、家賃は住人が決め、担当者が全員分を徴収して大家に届ける。定期的に住人全員による会議があり、問題があれば解決に向けて話し合う。大家は基本的に何もしないのである。住人達は学生としての必要最小限のことしか充足させようとしなかったので、掃除はしたが奇麗とまではいかなかった(笑)。

 この自治寮の「自治」を私は特に疑問なく受け入れる。しかし、日本において今日使われている「自治体」の「自治」には違和感があり、素直に受け入れることができない。そして最近、この感覚はネット上のある文献を見てから確信に変わった。それは13年くらい前に直接お話を伺った方のものであり、偶然検索でヒットした。タイトルは「アメリカの自治体制度」で、その冒頭に次のように書かれていた。「アメリカでは自治体は市民がつくる。住民が住民投票で自治体をつくると決議してから初めて自治体ができる。決議しなければ自治体はない。だから、アメリカには自治体のない地域(非法人地域、unincorporated Area)が面積の大半を占め、約1億人(総人口の38%)が自治体なしの生活をしている。」と。これは、私のイメージしている「自治」と合致した。アメリカだからということではない。

 日本では地方自治法で地方自治を担うものを「地方公共団体」と明記している。地方自治法の第一条は次のとおりである。
「この法律は、地方自治の本旨に基いて、地方公共団体の区分並びに地方公共団体の組織及び運営に関する事項の大綱を定め、併せて国と地方公共団体との間の基本的関係を確立することにより、地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障することを目的とする」 
 この文の”地方自治の本旨”というものに定義はない。”本旨”は正に自治の主人公である”自”が決める事である。であれば、この”自”は誰になるのか。地域住民一人一人である。地域住民の総意で自分達の地域の”自治の本旨”を定め、それを共有し、その本旨に基づき自分達の自治の憲法を決めるところから「自治」は始まるものであると考える。それが前述の「自らを自らの責任において律すること」において当然なことだと思うからである。

 さて、日頃新聞やテレビでお目にかかる「自治体」とはどのようなものであろうか。自治体の憲法を自分達でつくった記憶はあるだろうか。「ある」と答えるのは、せいぜい首長か議員か行政職員、それに加え学者と言われる方々だけだろう。一般住民でこの憲法をつくった感覚を持つ人にお目にかかることはほとんどないだろう。つまり新聞・テレビでお目にかかる「自治体」の"自"には一般住民は実態として含まれていないのである。であれば、そういうものを「自治体」と呼ぶところに問題があるのである。「自治体」とは言わず「地方公共団体」というのが正しい。"地方自治の本旨"が地域住民に共有されることなく、地域住民に共有される憲法もない地域の中で地域の統治を生業としている団体が「地方公共団体」なのだ。日本国憲法に定義された存在である以上これを否定する理由もないだろう。「地方公共団体」があるから日本は中央政府のコントロールのものと統治されているのである。地域住民はこの「地方公共団体」によって管理されているのである。地域住民にとって「地方公共団体」は所謂「役所」である。

 では何故「自治体」と言い出したのだろう。「地方公共団体」とだけ呼んでいることが何故いけないのだろう。その起源は私には現在のところわからない。そこで、呼び始めた理由を次のとおり想像してみた。中央官僚による中央集権の統治の仕方では情報化が進む現代において、地域ごとに異なって多様化複雑化する問題を解決できない。基本的に中央政府の指示で動く「地方公共団体」では地域の問題を解決していく力が人材的に欠けているのである。であれば、「地方公共団体」そのものの性格を変えていけばいいのだが、そういう道に明確には進まなかった。人材が必要であれば人材を地方公共団体に取り込むことを推進すればいいのだがそれをしなかった。それでも、ともかく統治にあたって、地方公共団体に属する人以外の人に統治への関心と問題解決の力を得なければならなかったのだ。そこで登場したのが「自治体」という"看板"だ。恐らく、欧米の自治の状況から学者が「これからは自治体だ」と言い出し、それを受けた中央官僚が「なるほど、そうですね」ということで納得した結果、「自治体」という言葉が日本に出回り始めたと思う。以上は私の想像である。

 ところで、日本の官僚政治の始まりがいつか少し調べてみた。それは日本が大日本帝国憲法を制定した時からのようだ。当時、憲法制定にあたりドイツ憲法を参考にしたが、ドイツの議会が政府の提案を阻んでいる状況を目の当たりにした日本政府要人は、大日本帝国憲法に議会を通さないで法案を成立する仕組みを盛り込んだのである。端的には天皇と政府に特権を持たせたのである。そして、政府は近代国家を作っていくため、政府を効果的にサポートするよう、その役割を官僚に託し、官僚に対して政治に関わる教育を押し進めていったのである。その教育の場の大きな一つが東京帝国大学なのである。この教育による官僚の知識の向上は日本の近代化にある面で寄与するが、その特権的な立場は議会を軽視する風潮をも育んだのである。そういう意味では、民主的に物事を進めて行く民主的な力の進化を近代化に欠かせないものと捉えた場合、日本の官僚政治が日本の近代化をことごとく遅らせたと考えてもいいのではないかと思う。議会という機構は持つが、議会が高度な議論の場に進化していかず、逆に予め定められたシナリオどおりに進むような「形式化」の色を濃くして行ったと思われるからだ。

 では、官僚政治の生い立ちに対し、自治はどうだったのだろうか。これも少し調べてみた。戦前の大正時代、自治会・町内会が地域住民により自発的に作られていたようだ。地域に住む人が基本的に参加を望まれる組織である。それまでは地域の主だった人で地域の運営をしてきたが、都市化・大衆化によって複雑化する人々に対応できなかった。そこで自治会・町内会を組織したのである。地域住民が自ら欲して作り出した仕組みということで「自治」と言っていいと考える。しかし、ここから自治会・町内会は紆余曲折の道を進む。戦時下、国策により、町内会の開設が奨励されるとともに、既存町内会に新規のものを合わせ、全国一律に整備したのである。政府が、戦争に対する国民の意思統一を図るため自治会・町内会を活用したのである。想像するにこの時点で日本には大きくわけて二種類の自治会・町内会が存在したと推測する。地域住民が自発的に作ったものと、戦争をきっかけに作ったものだ。「自治」という意味に関しては前者と後者はその生い立ちから別物である。そして、この頃から「自治」という言葉の意味が変質してしまったのではないかと推測する。戦争末期、自治会・町内会の役員は行政の末端の公務員として位置づけられている。自治会・町内会は国家統治の末端組織となり、「自治」の体をなしていなかったと考えられる。ただし、末端組織となることを住民の総意で決めた場合この限りではないのだろう。

 戦後GHQにより自治会・町内会は解散が命ぜられた。GHQは自治会・町内会を戦争協力組織として認識していたからである。ここで、内務省は困惑した。戦後の復興行政には、どうしても自治会・町内会の協力が必要だったからである。そこで、それまで町内会事務所であったところを行政の出張所という看板に付け替えたのである。一方地域住民としても自治会・町内会の機能は必要だった。そこで自治会・町内会を防犯協会、衛生組合、日赤奉仕団というような看板に替えたのである。つまり、自治会・町内会はGHQ管理下のもと、名称だけ替え、機能は戦時とほぼ同様に進んでいたのである。そしてGHQの管理が解かれた後、公然と復活したのである。

 この後、しばらく行政が曖昧に自治会・町内会を活用していたため、自治会・町内会の不満は募り、行政に対する影響力を強める形で行政区画ごとに自治会連合会・連合町内会を組織することになる。これを受け、行政は行政協力員制度を設け、町内会長を正式に行政協力員とするようになったのである。そして今日に至っているようだ。自治会・町内会は高齢化が進んでおり、その反対に市民団体、生協、NPO等の公共を担う組織が登場してきたようである。

 簡単に近代の官僚政治と地域の自治について私なりに振り返った。日本に自治体ができ、それが発展する下地はあったと考える。しかし、それは日本の民主化のターニングポイントで潰されてしまったようである。それでも、地域の自治や自治意識は自治会・町内会、市民団体、生協、NPO、地場企業等様々な形の組織や考え方で、ある時は強烈に、そしてまたある時は控えめに「地域コミュニティ」と「国家」の狭間の中で継続されてきたと考える。
 日本に自治体ができるのはこれからだ。地域住民の住民投票に基づきその地域の憲法である条例をつくり、そこから自治体の活動が始まると考える。この自治体は地域住民、自治会・町内会、市民団体、生協、NPO、地場企業等の集合体であると考える地域もあるだろう。いずれにせよ「○○である」とは、その地域住民の総意で決めることであろう。


 地域住民の条例に関わる住民投票を経ずして自治体を名乗るべからず、というのが私の主張である。地域住民のコンセンサスなしに自治体を名乗るとどうなるか、どうなっていくかを言及・推定・考察する。

(1)「自治」のイメージが変わっていく
 新聞・テレビ等で普通に「自治体」と使われている。さて、一般住民に「自治体とは何ですか」と質問したらどのような回答が多いだろうか。次の答えが多いと想像する。「役所のことだ」と。ここで質問を進める。「役所とはなんですか」と。「役所は役所だろ(怒)」と煩がれそうな気がする。ともかく、「自治体」は「役所」だ、というイメージである。行政サービスを提供してくれるが、そのサービス品質は"お役所的"という「役所」だ。"お役所的"という言葉、明確な意味はないながらも極めてツーカーと通じる言葉である。
 こうした「自治体」と「役所」は住民のイメージの中で結ばれ、下手をするとこの結びつきはより強固になっていくとさえ思う。何故ならば、この結びに疑問を抱かないからだ。そして「自治」とは本来「自らを自らの責任において律すること」だったのだが、それが「自らを他者の責任において律すること」に近づいていくと考えるのである。

(2)悩みが深まるだけの地方公共団体関係者
 「地方公共団体」は看板だけ「自治体」にすげ替えた状態にある。「自治体」に関して「こうあるべきだ」という理想を持つ人はその理想に近づくどころか益々遠ざかっていくかもしれない。何故ならば上記(1)のような状態であるからだ。「○○電気店」がある日「○○エネルギー店」になったとしよう。しかし、そのお店の物もサービス品質も何も変わらない。看板の掛けかえ時は「エネルギー店ってなんだろー」となるが、時間の経過で「エネルギー店って電気店のことだろう」となるであろう。そこへもってきて「エネルギー店っていうのは電気だけでなく他のエネルギーも取り扱うのだ」と言っても、実際に見せなくては到底理解は進まないだろう。「自治体」に関してはその基本中の基本である条例が住民のコンセンサスなしに決まっている。そんな状態で理想論など通じない。そうなってくると、さらに問題は深みにはまっていく。通じない人は遠ざかり、少しでも通じる人が理想論に耳を傾ける。通じる人は「地方公共団体関係者」(主に、行政、首長、議員、研究者)なのである。これは「地方公共団体関係者」の自治に関する自治意識の底上げに意義有ると考えるところだろうが、ここに大きな過ちがある。「関係者」と「関係者でない者」との知識やイメージの溝が深まるのである。理解が深まるのではなく溝が深まるのである。実態と理想がかけ離れていくのである。「関係者でない者」に理想論を啓発し、「関係者」には理想を捨て、現実を切り開くことを推進して行かない限り、「自治体」という看板に合致した内容に進むことはまず、ないであろう。そういう意味でも「自治体」という看板を外し、「自治体」を作ることに向けて準備するほうが遥かに有意義な時間の経過を辿る事ができると思う。話が格段にシンプルになるからである。

(3)呼び名の使い分け
 ○○市のホームペ—ジというのはある。しかし○○自治体のホームページというのは見つからない。○○市のホームページの発行責任者を見ると○○市役所とある。日常の市政において一般住民には「自治体」という言葉が馴染めるものにはなっていないと思われる。
 ちょうど環境省のホームページがあったので見てみる。すると「広域処理に対する自治体の状況」というタイトルで資料を掲載していた。内容を見ると「受け入れ先○○市」とある。
 これらから見えてくることがある。細かく調べていないので、今のところあくまで以下は推測だ。「自治体」という言葉、中央政府は一般住民に見えるよう日常的に使っている。そして、その「自治体」の中で表現されているのは○○市役所という組織名ではなく、○○市という行政区画名である。一方、地域の市役所は「自治体」を一般住民に見えるよう積極的には使っていない。
 政府が瓦礫処理を地域にお願いする時は「自治体にお願い」などと新聞に出ている。ところが案件によっては「市町村に義務づける」など「自治体」ではなく「市町村」と呼ばれる。
 このように「自治体」という言葉は、立場と案件によって同じ対象でも「自治体」と表現して使ったり、「市町村」や「○○市役所」というようにあえて使わなかったりする存在なのである。
 現状から感じること。それは日本において「自治体」という言葉は、中央政府の官僚が中央政府のイメージで使用する中央政府の言葉であるということである。
 なお、新聞やテレビ等のマスコミでも「自治体」と言ったり「市町村」といったりケースバイケースである。これについても何か使い分けに関わる傾向があると思う。ちなみに「地方公共団体」というのはなかなか出てこない。しかし、憲法で明記されている言葉が何故出てこないのだろうか。これは国民と憲法の関係に関わることでもあると考える。

(4)形骸化
 昨今、いじめ問題で教育委員会関係の制度が形骸化しているという問題が新聞に出ていた。Aという仕組みは形骸化しているのでBという仕組みにする、という。その仕組みを作るのも先導するのも政府である。しかし、これもやがて形骸化するだろう。自分たちの問題を自分たちの考えた仕組みで解決し、自分たちの考えで運用・是正することが必然的に形骸化を少なくする。もし自治体が内容に関しても自治体ならば、この問題に対し、各方面の知恵が必然的に集積されることだろう。しかし、それはなされず、ただただ「自治体」は政府の顔色を伺うのであろう。喉元過ぎれば熱さを忘れ、形骸化は繰り返されるであろう。


 地方分権、地方自治、などなど地方公共団体関係者の中では話題になっているだろう。看板を「地方公共団体」から「自治体」にした関係上、話題になることは必然といえば必然である。「自治体」に関する理想も各種あるだろう。しかし、あまりにも実態が伴っていない。「そんなことはない」というなら「自治体」と呼ぶようになって何が変わったか誰かに説明してほしい。その説明が本当に一般住民に届くのかよく考えてほしい。いや届けるのではなく巻き込まなくてはならないはずだ。都合の良いところだけ参加してもらって「住民参加で自治り(じちり)ました」なんてますます自治体を遠くするだけだと思う。地方公共団体関係者がやらなければならないことはコップの水をこぼすとか、コップをぶち壊すことなのだ。コップの中に適当なものを入れてかき混ぜているだけではどうにもならない。どうせかき混ぜるならコップを壊すくらいの化学反応を起こすようなものを入れることだと思う。そして地方公共団体というコップを認識し、それを自覚し、コップを壊して、「自治体」を地域住民とともに新たに作り出すことを目指すことが大切だと思う。北海道に自治体をつくる、ということである。ホームページに「○○市自治体のホームページです」とタイトルされ、その地域住民の100%が一度は目を通し、20%はほぼ毎日閲覧するようなそんな状態が来ることを目指すのである。
 

以上
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テーマ:北海道 - ジャンル:地域情報

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