2017-04

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コネと日本社会と民主主義

以下、頭から出てきたことをメモした自問文。



若者は政治に無関心であると言われる事があるが、私はそうは思わない。関心があればこそ、関心を持てない対象が日本の政治であると思う。

「政治を変える」「日本を変える」などが立候補者たちから連呼される。しかし、本当にそう考えている人がいるだろうか。ちょっとではなく、本当に、である。

こんなことをくどくど言いたくなる背景がある。それは大阪市の公務員入れ墨問題だ。入れ墨を入れている公務員を除外する話だ。私は最初、この差別に反対であった。入れ墨なんか入れていても仕事ができればいいだろう、という考え方からだ。

ところが、この件の問題は全く別のところにあるようなのである。ここから先が私の憶測なのであるが、どうやら的外れではなく、それどころか知っている人には知られている事実のようなのである。それは入れ墨はヤクザの縁故採用(コネ採用)の象徴だということなのである。公務員は必ずしも公明正大に職員を採用するということはなく、全国的に縁故採用もまかり通っていて、大阪ではヤクザがこれに介入しているという話しなのである。

こういった話はマスコミに流れない。流れないから、そもそもの本質的な問題が議論されず、単に入れ墨が公務に適不適かの表層的な議論で全国的に終わっている。

ここで話しを「縁故(コネ)」にする。「公務員は縁故なんてとんでもない」と思う方も多いかもしれない。しかし、日本の近年の歴史を振り返り、ひとつひとつ見ていくと、多くのことが「コネ」によって成されてきたことに気付いてくる。例えば企業の新卒者採用だ。コネばかりで固めても偏った社員構成になるだろうから適宜他の方法で採用することはあるだろう。

人は相手との信頼関係の中で何かを共に行なう。自分の眼力で信頼できない場合、その相手を自分の信頼している人やカテゴリーとどのくらい近接な関係にあるかどうかで判断する。こうした「信頼関係の数珠繋ぎ」によって日本の社会は成り立ってきたと改めて思う。「信頼関係の数珠繋ぎ」とは短く言うと「コネ」である。


さて、問題はここからである。このコネ社会に欧米の民主主義や自由主義が取り込まれてきたことにより、全体的にコネでバランスが取られてきたものが、歪み始めてきたと考えるのである。いくつか、ぱっと思いつく例を挙げて見る。

<プロポーザル>
 行政が外注者を選択する際の仕組み。受注希望者が提案(プロポーザル)し、それを審査で選択するわけだ。それまでは随意契約(ある理由のもとに受注者を行政判断で指定する)でなされてきたものがプロポーザルに転換しているケース。「公正」ということでは間違いが少ないだろうが、実際の事業のためになるかどうかは別問題であり、実際マイナスになることもある。何故、マイナスになるのか。審査員の質と責任意識の問題や、事業の特質や目的を関係者で十分共有できていないこと、などがあげられる。それまで行なわれてきた随意契約の意義や蓄積されてきたものを軽んじているケースもある。

<リストラ>
 バブル崩壊以降であろうか。「リストラ」というカタカナ言葉は、それまで使っていた「首切り」という言葉を和らげ、企業が経営していく際に公然と行使できる方法と化したように思う。しかし、これはどうだろうか。戦後、終身雇用の形態だったからこそ、企業のために尽くし頑張る事がされてきたのではないだろうか。企業と家族を守るため、ありとあらゆる努力と工夫をしてきたのではないだろうか。もちろん、こうした守りの姿勢は弊害も生み出すだろうが、その害を取り除かない限り未来はないことを認識し、自浄作用がなされてきたところが強く確実に成長してきたと思う。無い物ねだりをせず、自己研鑽、人材育成を行なっていたのである。
 欧米における「リストラ」は、人材が再配置される器があったからこそ成立するのではないだろうか。日本にこの器は乏しく、ただただ人材は切り捨てられるようになり、企業の幹を構築するシステムが動かなくなってしまったと思う。
 日本と欧米の大学の違いもこれらに大きく関係していると思う。日本は企業が人を育成し、その繰り返しで企業の幹をつくってきたと思う。そういうところが世界の中での強みであったと思う。別に例えるならばサッカーや野球のチームだ。お金でスターを揃えてもチームワークがなければ勝てない。スターはいなくてもチームワークで勝つ事ができるのが日本の強みだったと思うのだ。
 日本は「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」とか「鳴くまで待とうホトトギス」だったのだ。それがいつからか「鳴かぬなら殺してしまえ」まではいかなくても、それに近いところになってしまった感がある。

<グローバル化>
 使えるものは地球の裏側からでも燃料を使って取り寄せる。コストダウンに繋がるのであれば地球上のどこの地域の人でも使っていく。おかげで私たちは安くて品質の良い衣料を買え、1年中多種多様な物を食べることができる。そう、おかげさまで国内でつくった蜂蜜よりも中国でつくった蜂蜜のほうがとても安いので食べてしまう。しかも国内のものは実際「高い」と感じるほど国内は不景気なのである。地産地消とその正反対が共存している。
 なんだか違和感でいっぱいである。国内でつくらないから雇用が減る
。雇用が減るから収入が減る。減った収入で安い海外でつくられたものを買う。このからくりのこの負担はどこに行っているのだろうか。海外からものを運ぶために使用するエネルギーの排出する温暖化ガスで自然に負担をかけているのだろうか。それとも日本国内では考えられないような低賃金労働者に負担をかけているのだろうか。いや、もっと先にもっと負担のかかったものとして見えてくることがあるのかもしれない。それは日本人のものつくりに対する能力の低下である。本来負担をかけなければならない脳に負担をかけず、スカスカにするのである。つまり日本人は考えずにやせ細っていくのである。何と言えばいいだろうか。野原に時間をかけて少しずつそこに合った家を建てるということを忘れ、グローバル化だからと世界じゅうの良いと思われるものを集めて短時間で豪華なものをつくってしまうということだ。「何で、それが悪いのか。こんなに短時間で快適になったじゃないか」と反論が沢山くるだろう。うまくはいえないが、地道にやってきたところには地道にやってきたものにしかわかることのできないノウハウと力が蓄積されるように思う。短時間でカスタマイズする能力は日本に蓄積されたのだろう。しかし、その能力は短時間だけあって、他の国でも本気になれば模できるものであったのだ。これを現しているのが今日の日本であり、原発の安全神話ではないが、「技術の日本」というのも神話に成り下がってきている状況を自覚しなければならないのではないだろう。
 世界はお互いに共存しなければならないのは言うまでもない。共存のためにはお互いの長所短所を補完し合うようでなければならない。自由だからグローバルだからとやっていればどうなるだろうか。一時成功した国は繁栄し、失敗した国は没落する。その先にあるものは醜い戦いであることは間違いないだろう。
 国際社会がグローバル化のもと競争を進めたらどうなるだろうか。どこの国だって自分たちの暮らしを豊にしたいと願うだろう。競争には必ず勝者と敗者があるのである。国際社会において勝者も敗者もあってはならないはずだ。欧米諸国が「基本的人権」を掲げるならば、まず世界においてこれを確保することが最優先であり、利益を追求するのもいい加減にしなくてはならない。
 なんだかコネとは関係ない話しになってしまった。そう。グローバル化するならコネもグローバル化し、世界のバランスをとるような調整機能をもつコネを強化してほしいものだと思う。







 まあ、ともかく日本はコネの上に成り立ってきた。そのコネの実態、メリット、デメリットをしっかり認識しないまま、欧米の合理的なものを一部だけ中途半端に取り入れた。ある部分は合理的な競争原理があるのにある部分は従来のコネが維持されているという歪(いびつ)な構造になっていると思う。しかも、その歪な構造を悪用して高収入を得ている醜い人々が存在するのである。

 大切なことはコネの認識であり、コネをどのように扱っていくか、ということである。頭ごなしにコネを否定していては、コネはいつまでも水面下で行なわれる。そうした表と裏のある社会は民主主義の仮面を被っているにすぎず、真面目な人々が不利益を被る社会でしかない。コネをなくすということは従来コネで行なわれてきたことを補完する仕組みがなければならないのである。ここのところの認識がいい加減なのでコネは消えず、新たに取り入れられた仕組みもより良く改善されないのである。もちろんコネの重要な部分も認識し大切にしていかなくてはならないと思う。

 そして、報道の責任は重大だ。今回のような臭い部分を追求しない、見せない、そんな報道は日本人の民主主義の思考回路を混乱させ、回路の向上を阻害する。もっとも、昨今の日本の政治とマスコミの報道の悲惨なあり方、ネットの普及などから、「マスコミを批判する」日本人の総体的な力は少しずつ付いてきているかもしれない。であれば、思考回路は良い方向に進んでいるともいえるだろう。いずれにせよ、マスコミはあくまでマスコミであることを認識すべきだ。彼らは食べていくために彼らのコネを武器に権力(お金)にしがみつく。マスコミは第4の権力と言われているが、他の3つの権力(立法、行政、司法)と合わせて、これらの権力を制御しなければならないのは主権である国民であり、それは国民一人一人の責任と能力にかかっているのである。この一人一人の主権たる力を維持、向上するために国民自らのメディアを整えておくことが大変重要である。このメディアとは物理的な媒体だけでなくヒューマンネットワークもある。

 コネから主権者の話に行きついた。いずれにせよ、最後は何事にも自分の視点、自分の考え、自分の言葉が社会から問われるのだ。他者から聞かれた時「Aさんが言っていたので」では主権者としての説明になっていないのである。それなら「私にはわからない」でなくてはならない。それは主権者ではないのか。このように考えてきたら、「はて」と思う。何かの総会に参加できない時「委任状」を出して決定事項をAさんに任せるというものがある。これもコネの一種だろう。何故ならAさんに任せたのはAさんの価値観を信じたからだからだ。こういうケースの場合、
「あなたはどう考えた」と聞かれたら「Aさんに任せた」となるかもしれないが、それではいけない。総会は終わっていても総会後に問われれば自分なりの考えを述べなければならないだろう。ここまできて思う。そもそも「委任」とは何なのだろうか。役所の手続きについて委任するというのはわかる。やるべきことが明確だからだ。しかし、総会の議決に関して委任するとはどういうことか。総会の内容によるのではないだろうか。どちらに転んでも自分が賛同できるケースならいいのだろうが、任せたAさんが万一にも自分の考えとは違う決断をするかもしれないのである。

 民主主義をまともにやろうとしたら体がいくつあっても足りないことがわかってきた。この足りな部分を補うのがコネだと思う。だからこそ、コネについてしっかり認識するべきだしコネの存在について隠してはならないと思う。相変わらずあたり前のことを自問自答したのかもしれない。

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