自然と教育と幸福感
ムーミンの作家、トーベ・ヤンソンの生い立ちに関する書物に触れる機会があった。そこから今の日本について思ったことである。
トーベ・ヤンソンは芸術家の夫妻のもとに生まれる。自然豊かな中で過ごす。父は嵐の海にトーベ・ヤンソンを連れ出した。自然の脅威などを教えるためらしい。フィンランドの暮らしは自然が基調だと読んでいてひしひしと感じる。
中にムーミン物語語録のスナフキンの一節が次のとおりあった。
「・・・・なんでも自分のものにして、もって帰ろうとすると、むずかしいものなんだよ。ぼくは、見るだけにしているんだ。そして、たちさるときには、それを頭の中にしまっておくのさ。ぼくはそれで、かばんをもちあるくよりもずっとたのしいね。」
なんでも手にいれようろするとそれは帰ってストレスや垢になる。あるがままのところにあるとおりにしておくのがこの世界、地球の共生や存続に大切だと思った。
「自然」。私たち日本人は生まれてからどう自然と接し何を学んできたのだろうか。ふとそんなことを考えた。田舎には自然が満ちあふれているだろうが都会は違う。子どもたちが自然とどのように接しているのだろうか。
デンマークの教育に関するサイトに出会った。
デンマークの豊かさ~教育の意義とは~
京都産業大学文化学部 国際文化学科 水谷 有希
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/mizutani(07-1-28)
である。
デンマークでは1920年代多くの労働力を男女問わず必要にした。そのため子育ての環境を整えた。保育園も幼稚園も子どもの権利として国が確保したのである。デンマークの子どもの教育テーマは次のとおりだ。
・全般的な幼児1人1人の発達
・社会適応力
・言葉
・身体と運動
・自然と環境
・文化的表現と価値
この目的のために教育が行われている。この目的は本当の目的であって、形だけのものではないとこのサイトを見ていて感じた。子どもたちの好奇心や興味、自発的なものを何よりも重視するとともに大人も子どもたちを真剣に向き合う教育の姿である。学校はデンマークにとって必要不可欠な存在であることが明確であり、それゆえ、何か問題があればそれについてセクションを問わず議論はなされるのである。
他にも沢山特筆すべき点があるが、詳細は上記サイトで確認してほしい。
デンマークは幸福感の高い国であり日本はその逆である。この評価がどこまで理論的科学的で客観的であるかはわからない。が、わかるような気がする。
一口でいうならば「個人の主体性」の重視の違いである。
これは個人だけでなく「自治」にも通じるだろう。
主体的にできることの幸福感。
物があること物を持っていること地位があること学歴があること。ここにどの程度の幸福感が宿るのであろうか?日本のことである。
政府は女性の社会的向上(何をもってこのようにいうのか、そのへんも曖昧だが)をうたっているが、であれば同時に子育て環境も整えなければならないだろう。それ以上に子どもの教育について日本の将来のためにもっと考えていかなければならないだろう。文科省が学校のカリキュラムをあーだこーだいじっている次元の問題ではないのである。もっと根本的にもっと地域的に取り組んでいかなければならないことなのだ。先生達にはあまりに時間がないのである。子どもたちに接する時間でいっぱいである。先生達で、地域の人達と、などそういう議論や話の場、子どもたちの問題に向かう場と時間はあるのだろうか? 恐らくないのである。これは日本の教育の姿なのである。「経済」に洗脳され、教育に対するお金と時間を切りつめてしまうのである。
都会に人はますます集中する。主に仕事のためだ。
保育園の子どもたちの声がうるさいと高齢者達が言う。高齢者の気持ちもわかる。子どもたちものびのび育てたい。高齢者が悪いのか、保育園が悪いのかそんな論争を呈しているようなのである。しかし、これはおかしいと思う。今の日本の「都会」というものを否定しなければならない。否定してつくりなおして行かなければならない。そのことをもっと深刻に受け止めていかなければならない。自然を理解し人を愛し自己の意志を持ち、そういう人が育つ環境について真剣に考えなければならない。あっちが悪いこっちは我慢しろ、と言っていられる状況ではなくなってきていると思う。
地方創世といいながら、その一方で東京オリンピックだとやっている。老人と保育園が騒音でいがみあうような都市の国のどこに幸福感などあろうか。原発の運用という国民の生命に関わる案件をめぐって国民投票もなしに進んでしまう国家のどこに誇りをもてるのか。
誰かが言っていた。「日本は何でもある。それなのに幸福でないなんて贅沢」と。この言った人、それは誰でも享受していることだと思っているのか? 朝から晩まで寝る以外には仕事をしていて、それで何でもあるのがいいのだろうか。時間は自然は。
物があればそれが豊かなのか。無いのは困るが、過剰にある必要もないだろう。誰にでも必要最小限のものはあると思っているのか。時間は?自然は?コミュニティーは?家族は?
トーベ・ヤンソンは芸術家の夫妻のもとに生まれる。自然豊かな中で過ごす。父は嵐の海にトーベ・ヤンソンを連れ出した。自然の脅威などを教えるためらしい。フィンランドの暮らしは自然が基調だと読んでいてひしひしと感じる。
中にムーミン物語語録のスナフキンの一節が次のとおりあった。
「・・・・なんでも自分のものにして、もって帰ろうとすると、むずかしいものなんだよ。ぼくは、見るだけにしているんだ。そして、たちさるときには、それを頭の中にしまっておくのさ。ぼくはそれで、かばんをもちあるくよりもずっとたのしいね。」
なんでも手にいれようろするとそれは帰ってストレスや垢になる。あるがままのところにあるとおりにしておくのがこの世界、地球の共生や存続に大切だと思った。
「自然」。私たち日本人は生まれてからどう自然と接し何を学んできたのだろうか。ふとそんなことを考えた。田舎には自然が満ちあふれているだろうが都会は違う。子どもたちが自然とどのように接しているのだろうか。
デンマークの教育に関するサイトに出会った。
デンマークの豊かさ~教育の意義とは~
京都産業大学文化学部 国際文化学科 水谷 有希
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/mizutani(07-1-28)
である。
デンマークでは1920年代多くの労働力を男女問わず必要にした。そのため子育ての環境を整えた。保育園も幼稚園も子どもの権利として国が確保したのである。デンマークの子どもの教育テーマは次のとおりだ。
・全般的な幼児1人1人の発達
・社会適応力
・言葉
・身体と運動
・自然と環境
・文化的表現と価値
この目的のために教育が行われている。この目的は本当の目的であって、形だけのものではないとこのサイトを見ていて感じた。子どもたちの好奇心や興味、自発的なものを何よりも重視するとともに大人も子どもたちを真剣に向き合う教育の姿である。学校はデンマークにとって必要不可欠な存在であることが明確であり、それゆえ、何か問題があればそれについてセクションを問わず議論はなされるのである。
他にも沢山特筆すべき点があるが、詳細は上記サイトで確認してほしい。
デンマークは幸福感の高い国であり日本はその逆である。この評価がどこまで理論的科学的で客観的であるかはわからない。が、わかるような気がする。
一口でいうならば「個人の主体性」の重視の違いである。
これは個人だけでなく「自治」にも通じるだろう。
主体的にできることの幸福感。
物があること物を持っていること地位があること学歴があること。ここにどの程度の幸福感が宿るのであろうか?日本のことである。
政府は女性の社会的向上(何をもってこのようにいうのか、そのへんも曖昧だが)をうたっているが、であれば同時に子育て環境も整えなければならないだろう。それ以上に子どもの教育について日本の将来のためにもっと考えていかなければならないだろう。文科省が学校のカリキュラムをあーだこーだいじっている次元の問題ではないのである。もっと根本的にもっと地域的に取り組んでいかなければならないことなのだ。先生達にはあまりに時間がないのである。子どもたちに接する時間でいっぱいである。先生達で、地域の人達と、などそういう議論や話の場、子どもたちの問題に向かう場と時間はあるのだろうか? 恐らくないのである。これは日本の教育の姿なのである。「経済」に洗脳され、教育に対するお金と時間を切りつめてしまうのである。
都会に人はますます集中する。主に仕事のためだ。
保育園の子どもたちの声がうるさいと高齢者達が言う。高齢者の気持ちもわかる。子どもたちものびのび育てたい。高齢者が悪いのか、保育園が悪いのかそんな論争を呈しているようなのである。しかし、これはおかしいと思う。今の日本の「都会」というものを否定しなければならない。否定してつくりなおして行かなければならない。そのことをもっと深刻に受け止めていかなければならない。自然を理解し人を愛し自己の意志を持ち、そういう人が育つ環境について真剣に考えなければならない。あっちが悪いこっちは我慢しろ、と言っていられる状況ではなくなってきていると思う。
地方創世といいながら、その一方で東京オリンピックだとやっている。老人と保育園が騒音でいがみあうような都市の国のどこに幸福感などあろうか。原発の運用という国民の生命に関わる案件をめぐって国民投票もなしに進んでしまう国家のどこに誇りをもてるのか。
誰かが言っていた。「日本は何でもある。それなのに幸福でないなんて贅沢」と。この言った人、それは誰でも享受していることだと思っているのか? 朝から晩まで寝る以外には仕事をしていて、それで何でもあるのがいいのだろうか。時間は自然は。
物があればそれが豊かなのか。無いのは困るが、過剰にある必要もないだろう。誰にでも必要最小限のものはあると思っているのか。時間は?自然は?コミュニティーは?家族は?
スポンサーサイト