2012-05

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<雑感>人と自然とストレスと社会と

現在社会で人のストレスが増している事は様々なところで目にします。ストレスにより肉体や精神に異常をきたします。このストレスの要因も様々です。複雑化する仕事、核家族による孤独、コンピュータの介在するコミュニケーションなど、あげればきりがないでしょう。

最近、私はふと思いました。孤独で寂しい時やつらい時、遠くや山を見たり、道ばたの花々をながめたり、木々の鳥のさえずりを聞いたり。そう、私はこうして癒されているのだと。

自然が大切なことはあたりまえすぎますね。しかし、人はこのあたりまえすぎることをいつも常に何度でも繰り返し思い考えなければならないのだと、当たり前の中であえて思うのです。

そう、人間だって自然の一部です。何故人間なんてできたのでしょう。不思議です。「進化の過程でできてきたんだ」と理屈はそういうことなのでしょう。それにしても他の生物に比較し圧倒的に違うことが私は次にあると思います。それは「人間には考えることで自然の未来を変える力がある」です。なんとおこがましいことでしょう。しかし、原発事故で既に実証済でしょう。また、クローン技術による生物のコピーも未来を変えることになっていると思います。

こうした人間の行動さえも「自然」であると考えれば「自然」なのでしょう。そうであれば、人間は自らを考える力で変えうることのできる生物とでもいうのでしょう。「他の生物と圧倒的に違う」というところでは間違いないと思います。まあ、だからといって他の生物に「考えることで自分を変える力」が無いかといえば、それは言い切れないとも思います。


都会。空は少しずつ狭くなり、爽やかな風は少しずつ失われます。思い通りに進んでいる時には気に止めることもないのでしょうが、そういう時が続くことはないし、皆がそういう状態であることもないでしょう。それこそ生まれた時から何かに支えられ何かを支え生きているのが人間だと何かを失って初めて心から気付くのだと思います。そして、その支え合いにあるのは「人」だけではないのだと思うのです。地球に生物が住み始めてから存在する「自然」が言葉はしゃべらなくても人を支えてきたと思うのです。

昨今の社会問題、その根幹は「人間と自然の関係」にあるのではないでしょうか。その自然とどう向き合って社会を都市をつくるのか、それは常に問われている課題であり、人間はそれをないがしろにしてはならないのだと思います。




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ITと学校教育

先日、某自称公共放送で「ITと未来の学校教育」(正式名称忘れました)に関する東京のイベントを3分程度紹介していた。

電子的な黒板は、その上で棒のようなものを手のごとく操作すると様々な図を描く事ができたり、コンパスや分度器の役割を果たすこともできた。

会場の映像をスタジオで見ながらアナウンサーは「うわー、すごい」とやっていた。そういうところで終わっていた。

これを見て「うーんと思ったので、このブログを書いている。


限られた時間の中であるから、未来の教育はITで変わっていくのだね、ということをポジティブに捉えて終わっても仕方ないことなのかもしれない。しかし、この番組には学校教育の多くの問題が隠されている。ざっと列記する。


・企業の営利優先による教育現場や子どもたちへのIT機器の投入。メリットのみを強調し、デメリットについては関知していない企業。

・iT導入に関する行政と教育委員会と現場のずれ。導入されても現場で使えない、使われない。この原因には、IT機器自体に問題の他、ヒモ付きで導入されているための運用範囲の限定によるものなどがある。

・IT導入に関するデメリットに関してしっかり議論され蓄積され認識され検討され想像され注意されていない。デメリットがあるからITは使わない、ということではなく、デメリットに注意しながら運用する、ということである。もっとも、悪く言えば子どもたちがITと教育の「モルモット」になっている状態ではある。だからこそ、よりデメリットに対して細心の注意を払わなければならないはずである。

・そもそもITと人間の関係に関する研究が極めて不足しているように思う(どのくらい研究されているか調べていないで私は言っている)。


「文字が書けない」といったことはないだろうか。私は以前に比較し、楷書で書くのがかなりしんどくなってきている。知り合いは漢字を思い出すのに苦労しているという。年齢のせいかもしれない(笑)。が、そればかりもでないだろう。パソコンばかり使っていれば十分考えられる結果なのだと思う。

問題は単に文字を書けない思い出せないということではない。そのことによる二次的弊害である。アナログな文字を書かない書けないということの弊害である。実は私もこの弊害がどういうものかわからない。わからないから想像する必要がある。少なくとも、電気がないと文書をかくパフォーマンスが落ちることだけは確かだろう。コンパスの現物は使えるだろうか?そのように考えていくとサバイバルには弱い人間が育つだろう。「サバイバルなんて、そんなのめったにないよ」というところだと思う。そうだろう。しかし、そういう時に限って、いざという時の「いざ」が訪れてくるのではないだろうか。

人間同士のコミュニケーションにコンピュータが介在する割合が高くなってきているわけである。何もかも悲観的に捉えてコンピュータをシャットアウトしろというのではない。ただし、悲観的に考えることは今重要であると思う。楽観的に考えて通り過ぎてきた結果、従来になかった社会的事件や問題が起きているのだと思うからだ。

そう、今はコンピュータがちょっとした人の手間を省いてくれているにすぎないだろう。ただし、間違いなく少しずつコンピュータのエリアは拡大していく。

カーナビはとても便利だと思う。半信半疑で使い始めたら、こんなに便利なものはないと思う。どこかへ行く時の不安が解消されましたから。住所だけ聞けばたどり着ける。迷っても携帯電話で確認できる。しかし、こんなに便利になってもそれに比例して人の幸福感が増す訳でもない。そして、何も持っていなければ人に聞くしかないことになり、それは聞く事の能力の維持や向上に繋がっているのではないだろうかと思う。そういう機会をコンピュータで失っているわけだと思う。

あたりまえだが、社会において当分コンピュータとつきあっていくことになるだろう。コンピュータをうまく活用し、より人とのコミュニケーションを大切に充実させるように向うように願う。それは世界や人種などの相互理解や様々な差別を少なくしていくことにつながると思うから。

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電力経済ボケ社会からエコ経済健康社会へ

日本ほどエアコンが普及している国はないでしょう。そのへんの世界との比較資料がなかなか出てこないので、よいものがあればご紹介ください。

暑くて湿度が高く、そういう条件下でもせっせと仕事をする日本。どうもこれは世界的に見ても稀のようです。他国は暑くてもカラッとしているか、暑いときは仕事をしないかのようなのです。このへんも「日本と似たようなところある」というお話あれば伺ってみたいです。

日本人は猛暑の自然環境を克服しながら仕事にせいを出し、戦後の日本を築いてきたのでしょう。そしてそれはどうやらエアコン電力のおかげによるところが大きいようです。

私は日本のエアコン普及を肌で感じてきた一人だと思います(私はクーラーと言っていたので、クーラーと以降言います)。1960年-1979年神奈川県に住んでいました。40年前、クーラーはまだまだ高値の花だったと記憶しています。電車には結構普及していたと思いますが、バスや自家用車では皆無だったと思います。一般家庭においてはあるほうが珍しかったと思います。それから10年、つまり1970年代になるわけですが、どんどこクーラーが普及してきたわけです。以前なら「あそこのあそこは涼しい」とか言って駆け込んでいましたが、80年頃にはどこもかしこもクーラーになっていた感じです。

調べたわけではありませんが、恐らく、クーラーの普及率とマンションや高層ビル、駅周辺の多層化(地下)は一致していると思います。40年前は高層ビルなんて霞ヶ関ビルくらいしかありませんでしたから。

以下のようなことだと勝手ながら思います。
高層ビルは経済成長の証のようなものだった。どんどこ建てた。つぎからつぎと人が集まった。海もどんどこ埋めた。コンクリート、アスファルトはがんがん熱を吸収した。発散もするが高層ビルで風が流れず発散できなかった。よってクーラーをがんがん効かせる。が、クーラー自身も熱を同時に外に出す。電車も高速で増線増便で、居住はばんばん都心から離れる。この電車でも電気をがんがん使うのだ。ところで、他国は見た目は似ていても、高層ビル群の都市は実は気候は夏であっても夜は寒いくらいになるのであった。そこに気付かず繁栄繁栄と熱にうなされて出来上がったものは、世界の中で最も自然を無視し最も自ら過酷な環境をつくり最もクーラーを使って冷やすという超エネルギー消費都市だったのだった。最近でも相変わらずコンクリートは建てるけれども屋上に木をはやし、夜景や湾岸の見えるところで野菜を取れるので「エコ」というようである。なんでもかんでも電気電気で電気があればなんでもなんとかなるとやってきた。

都会に人を一極集中させた。仕事や企業のために住みたいところに住めない。家族でいっしょにいれればいいが、家族ばらばらになってどーするのか、おとうさーん。我が家が危険に遭遇したら、誰が家族を助けるというのだろーか。親戚もあっちこっちにいっちゃって、子育てに悩む女性が増え「子育て支援」策が登場する。しかし、本質的にはこういう支援が無くなる方向にあるべきであり、無くても家族が地域が支えれる家庭環境を取り戻すべきなのだと思う。同様なことには「介護」もあろう。
長い目で見ると、電力経済社会は幸せよりも不幸への道を生産していたのかもしれないと考える。

「地方分権」とか「地域の自立」がさけばれてどのくらい経過するだろうか。本当はこれらに進むことが今重要で、日本日本とやるのは違うと思います。「地方分権」「地域の自立」は議員が地元の票を取るためのものだったのでしょうか。

別に特別変わったことをしようというのではありません。各地域でのびのび家族がいっしょに過ごせ、のびのび子育てができる環境をつくること、それらのために今人口が集中してしまっているところをそうしなくなるようにしましょう、ということなのです。

日本は電力を使って人を東京に集中させ世界の中でやってきました。電力を使うだけ使って、集中によるストレスを緩和させてきたのだと思います。緩和だけならいいのですが、バーチャル(仮想)な世界で取り繕ってきたところもかなり大きいのではないでしょうか。演奏のゲームは楽しいけれど、いっしょにスタジオで演奏するほうがめちゃめちゃ楽しい。コンピュータ相手も楽しいけれど、人が相手なのはもっと楽しいのです。いやっ、だんだんコンピュータのほうがいい、という人が増えてきているのかもしれません。そこのところはどうなんでしょうか。

原発事故は私たちに重要なことを示してくれているのだと改めて思います。
今までのような比例関係で電力に依存しながら一局集中を続けながら歪みを取り繕う施策(カバー)をつぎからつぎへと繰り出してやっていくのか。それとも電力に頼らない(使わない、ということではないですよ)でもなんでもないようにやっていける、子どもがすくすく育ち大人がはりきって仕事をし老人が好きなように余生を過ごせるような地域社会の集合としてやっていくのか。

「再稼働なしは集団自殺」とは、あまりに貧弱であまりに将来への想像をかいた発言だと思い、今回の日記となりました。ここで仙谷氏の言う集団とは、まず原発利権ありき、の人々のことを的確に指しているのだと思います。本人に意識はないと思いますが。

最後に。
同じ人参でも専用の皮むき機を使うより、包丁を使う方が脳が活性し、ぼけ防止に役立つそうです。電力の使い方もこれと同じだと思うわけです。人間は「食べる」「コミュニケーションする」「何かする」でとても幸せだと思うのです。これらに電力をどう活かしていくのか。使わないことも使うことも活かすうちに入ると思います。問題は「電力ありき、電力依存」だと思うのです。これではきっとボケるのだと思います。



以上は新聞「「再稼働なしは集団自殺」仙谷大臣の発言記事を読んで。

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