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2012-04

立て直しをあせるな

原発事故を機会に日本の民主主義や自治やまちづくりの問題点があらわになってきた。この問題点は戦後の時間の積み重ねでできあがってしまったものだ。途中でも何度か赤シグナルが出ていたのだろう。しかし、それを対処療法的に覆ってしまったのだ。こうしてつくられたものは欠陥住宅のようにやがてどうしようもないところまでくる。

今「日本はどーする」とそこいらじゅうで言われているし耳にする。しかし、まだまだ対処療法的なものが進み、根本的なところをコンセプトを見直そうとするところが少ないように思う。弱いように思う。

欠陥住宅の立て直しである。ある部分はゼロから考え直さなければ、また欠陥住宅をつくることになってしまう。

もしかすると日本人は極端に「根本的な見直し」「コンセプトづくり」に弱いのかもしれない。全てを白紙に戻して考え直すことが苦手なのかもしれない。何かの前提を用意したうえで、議論をしないと議論できないのかもしれない。しかし、それでは駄目だと思う。

日本再建については世代間の考え方の違いも相当あるように思う。このへん、相互理解するところからもやらなければならないだろう。


ただひとつ大切にしなければならないことがある。
それは出された質問や指摘された問題に対して目を背けないこと、誤摩化さないこと、である。ある問題Aに対して「そりゃあ難しい」と思ったら、それをできる人を探すことである。考え抜くことができる人を探すことである。そういうアクションなしに、「難しい」「そういうものだ」で止まっていては対処療法で終わるだろう。こんなことを言っていれば「口で言うのは簡単だ」「現実だ」「大人でない」と出てくるのが目に見えてくる。そうして口を閉ざす人が増えていくのだろう。

専門家でも誰でも自分が「難しい」ということで他者の思考を止めるようであってはならない。むしろその逆で、自分も思考を進めるし、より周囲の思考を進めることをしなくてはならないと思う。


「これから重要になってくる地域力とは、思考を続けることである」
私はそう思う。





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テーマ:政治 - ジャンル:政治・経済

知れば知るほどに知らないと知る

TV放送大学を聴講してのことです。
明治神宮の森は人口につくった割には立派な森だそうです。
その森の地面の足跡程度の広さに一体どのくらいの生物が存在するのかある学者さんが調べたそうです。細かい数値は忘れましたが、ミミズやダニがそれぞれ数万匹、他にも沢山の種類が数千から数十万の単位で存在するとのことです。ミミズの数には驚きましたが、もしかすると聞き間違えかもしれません。まあ、ともかく私たち一般人の想像以上の種類と数の生物が身近な土の中にいることは確かなのです。

生物学者は生物のことに当然詳しいのですが、詳しいと思っていても地球に存在する生物の99%は未知とのことなのです。ちなみに知っている1%は200万種類程度とのことでした。こうして知っていくと、実は知らなかったことがわかってくるわけです。物事とはそういうものだと改めて思った次第なのです。

ところで、それでは生物学者は何も知らないのかというと、そんなこともないそうです。地球上の生物はある一定の規則により生きているということなのです。エネルギーを生成させることや遺伝の方法など6点くらい説明がありました。地中のダニと私たちは基本的に同じということなのです。

ここまでくるとまた「知ってきた」となります。

さて、ここで考えこみました。
放射線はダニにどのような影響を与えているだのろうか、と。どなたかわかりますか。そうです。またわからなくなりました。

そして想像すると恐ろしいことがわかると思います。
生物は複雑な連鎖で成立しています。その生物のそれぞれを私たちは同じ様なものとして考える事ができる一方、個々の生物に対して放射能が何をもたらすかわかっていないのです。しかも、知っている生物は1%だけです。

このように考えていくと、現実は恐ろしいと思えます。特に自然に逆らった場合、恐ろしいと気づいてきます。なにかの生物に異変が生じ、その生物が消滅したり、変質することでそれまでにあった連鎖が変わると想像できるのです。草がなくなればその連鎖で肉食動物が大きな影響を受ける事は学校で教わりましたから、連鎖については誰しもわかると思います。しかし、目に見えない連鎖についてはわからないし、見えないからなのか「大丈夫」と安易に考えてしまっているところがあるのではないでしょうか。「へーき、へーき」と。寸断された連鎖が私たちに影響を及ぼすまでに何年かかるかわかりません。数年かもしれないし数万年かもしれません。いずれにせよ、目に見えてわかった時には遅いのかもしれません。

福島第一原発事故が起きて数日後に、放射能が海洋の食物連鎖に与える影響に関して水産庁から「大丈夫」というようなコメントが出ていました。出たのは確かです。どういうレベルのコメントかわかりませんが、記憶している人は記憶していると思います。
「大丈夫」というこの言葉。自然に何かしでかした場合、これを言えるのは神様くらいしかいないのではないでしょうか。見識の深い学者ほど「なんともいえない」と答えるのだと思います。

人と自然との付き合いということでは私はインディアンを思い出します。インディアンに詳しいわけではありませんが、自然を尊重しながら生きてきた人達と思います。
私たちは日頃「インディアンのように生きよう」といえば、「君、車も飛行機も捨てられないよ」とかそういうことになるでしょう。しかし地球規模的に世界的に「地球温暖化」とか言い出したということは、人類として自然との共生を真剣に考えなければならない時にきていることの現れだと思います。そして、今すぐ何かができなくても、自然を尊重していく心を一人一人少しでも心のどこかに灯せればいいと思いますし、そういう時代に差し掛かったと思うのです。


以上のことから次に行き着くのです。

自然と原子力を知れば知るほど、知らないということがわかってくる。

放射能に関して「大丈夫」と言い切っている学者のその根拠は「人類の経験」でしかないのです。理論的な根拠を聞いてみてください。恐らく出てこないはずです。経験が駄目だということではありません。ただ「経験」と認識するのと「論理」と認識するのでは月とスッポンのような差があると思うわけです。

「人間が人口的に生み出したものは基本的によくない」
「しかし、人工的なものによって世界の一部のひとたちが恩恵をうけている」
「その恩恵は人間の欲望によるものである」
「人間の欲望は人間を進化させるが人間をも滅ぼす」
「結局、人間にとって大切なのは欲望の使いどころである」
というふうに思い巡りました。


「欲望の使いどころ」
これを個人レベルで地域レベルで国家レベルで人類レベルで常に考えていくことが大切だと思いました。







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大手マスコミと民主主義政治

http://mainichi.jp/area/news/20120407ddn002010037000c.html
という毎日新聞社からの
「<石原都知事>橋下大阪市長に強い期待感」
という記事を目にして。


 優等生の大手マスコミ。
権力をチェックしているようにみせかけて、権力を作り上げ、そこから巧みにお金を生み出していると思います。そこには民主主義政治を成長させなければ、という視点は微塵も感じられません。
 
 「ある情報」はいろんな方面からいろんな編集により、それぞれの読者に伝わるのが民主主義的だと考えます。しかし、今の大手マスコミ、どこも似たり寄ったりではないでしょうか。

 今回のような記事はこれから随所で出てくるでしょう。繰り返し繰り返し。理念や政策はその繰り返しのところどころに入れます。入れないとさすがに報道っぽくないですから。

 最近「ヒトラー」という言葉を目にすることが多くなりました。これは市民が率直に感じることなのだと思います。昨今の日本の状況からすれば、それを打開するのに「わかりやすいこと」が効果的でしょうから。

 しかし、今、この「わかりやすこと」に市民は安易に飛びついてはならないと思います(安易に飛びついている時点で「市民」とは言わないのだとは思いますが)。そして本来は市民側に立ち、安易に市民を取り込もうとする権力をチェックしていかなければならない大手マスコミは全くその逆で、安易さを増長させていると思うわけです。

 今、日本はどうして今の状況になるのでしょう。これは端的には欧米、特に米国の模倣をしてきたツケだと思います。模倣をしてきたので、基礎力がないのです。「米国ではねー」だとか言葉のはしばしに英語をちりばめたりとか、そういうやり方で盛り上がり進んできたわけです。そのツケです。

 このことは原発事故に象徴されていると思います。米国設計の原子炉をそのまま地震国日本で運用したツケです。スイスだったと思いますが、福島と同じ米国設計仕様の原子炉にスイスの観点で変更をしています。自分たちの安全に対する基礎力があるからだと思います。日本にはこれがないのです。厳密に言えばもちろん基礎力を持っている人はいるのでしょうが、そこが生かされません。そのへんの大きな阻害要因が「米国の模倣から生まれた日本の経済優先主義」なんだと思います。全てが模倣ではないですが、大半は模倣だと思います。

 民主主義政治についても日本には基礎力がないと思います。ないからあたりまえのこと、常識的なことを声たからかに言う人に、簡単に魅かれてしまうのだと思います。恐らく基礎力のある国の人から見れば「そんなことができていないの、日本は」となることが私たちの想像以上にあると思います。

 今、日本は困難な時期にあり、これを凌(しの)ぐことは必要ですが、それはあくまで凌ぐことであって、大切なことは日本のあらゆる面での基礎力をつけることだと思います。基礎力のないことを自覚し、どうしたらそこを身につけていけるかを考えていく。考えてばかりでは破綻してしまうから、凌がなければいけませんが、あくまで凌ぐという自覚を持つ。であれば、凌ぐために身の丈にあった暮らしぶりを心がける。

 基礎力のひとつに「民主主義政治と情報」があると思います。

 昨今はツイッターやフェイスブックなどマスコミを通さずに行き来できる仕組みがあり、実際にこららを活用している多くの市民がいるでしょう。それはもちろん喜ばしいことですが、反面これさえも注意が必要だと思ったりします。米国がつくったシステムであるからです。個人の権利と主張を重んじる(もちろん、ないがしろにされている部分もあると思いますが)米国人だからこそ、流れてくる多用な情報から自分の観点で選択していくことができると思うわけです。しかし、日本人はどうでしょうか。内容の議論なんかしないでも、その場で皆で「おー」なんてやって物事が決まってしまうようなことろがあるでしょう。蓋を開けてみると、これらのツールが権力のいいように使われてしまっていることにもなりかねないと危惧するのです。

 そうならないためには「基礎力」だと思うのです。

 最後になりますが。議員になろうとする者、議席を確保しようとする者が今の時代、大手マスコミを批判できるでしょうか。こういう者が例えば「記者クラブ」の存在を否定し改善しようとしているでしょうか。どうでしょうか。選挙が近づくにつれ、そのへんはどうでしょうか。

 本当に志の高い政治家を輩出するならば、現体質の大手マスコミに頼らない方法が必要なのだと思います。それが可能か不可能か、市民の「基礎力」が問われているのだと思うわけです。

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