原発が世界からなくなる日
人類は過ちを繰り返す。一人一人が正しく考えても、権力が誤った道に国を進めてしまう。国にとって権力はできうる限り小さく控えめにあるべきだろう。
世界は大戦を2回行なっている。3回目はさすがに大国自らの存亡も危うくなったので回避されたが、それでも小戦(大戦に比較しての表現)を繰り返している。
原発はどうだろうか。世界で運用が始まった時、そこには明るい未来を描いている人が多かったようだ。しかし時間の経過とともに問題が次々明らかになり山積みされていった。それらは市民に直接被害を及ぼす事故が起きてから漸く市民に認知されるようになる。
何本かの原発関連ドキュメンタリー番組を見てこの記事を書き出した。
原発を多く使用する国である仏の状況は番組を見る限り深刻だ。電力会社が国営から民営となり、原発の安全管理に「費用対効果」がより色濃くなってきているのである。メンテナンスはどんどん下請けに任され、危険な作業ほど下請けの下請けなどに回る。リスクの高い代わりに賃金が高いと思えば、全く逆である。人材教育にかけるコストは削減され、人材は育たない。現場からは「今のメンテナンスは危険だ」と声が出ているとのこと。
人に幸福をもたらし経済発展の目玉とされた原発。運用してわかってきた危険を回避するために安全策を講じなければならないが、ビジネスとして成立させるために切り捨てられているものがあり、それは増え続けているようなのである。
大戦のように、多くの人が亡くならないと相変わらず人類は目を覚ます事ができないのだろうか。いや、これには語弊があるだろう。オーストリアやイタリアなど国民投票で原発廃止または廃止に向っているところもある。目を覚ませないのは人類ではなく、民主主義が正常に機能していない国ではないだろうか。そういうことからすると、米国や仏はどなっているのだろうか。個人の権利と自由を何よりも重んじていると見られている国だったが、ある種の利益のために個人の意見を封じ込めるこもと同時に強固に機能しているのだろうか。
チェルノブイリのような事故は10万年に1度想定されていたようである。しかし、実際にはこの30年の間にレベル7の事故が2回起きているわけである。これは学者の考える想定が如何に不確実性の高いものであるかの証明である。原発がここまで示してくれているのにまだ目が覚めない国々がある。きっといつか取り返しのつかない大事故が起きるだろう。それでしか目が覚めないのだろう。
ところで廃棄物の処分はどうなるのだろうか。フィンランドは決まっているようだ。ある強固な地盤の地下に何十年もかけて埋めていくとのことでそれは開始されている。そこに10万年は保管する必要があるとのことだ。この10万年の間に氷河期が来て人類は滅びるかもしれないとのこと。そこまで想定し、氷河期が過ぎ去った後、人類が復活し、この危険な地下に侵入しないようメッセージを残した部屋もつくっているそうだ。
しかし、どうだろうか。「想定」といっているが、それはあくまで現時点の「想定」である。そのことをわかりながら不安そうな顔をして話しをしている学者もいれば自信満々な学者もいる。前者が本当のところだろう。後者の思い上がりも甚だしい学者は多い。何をどのように論じても自由である、が人間と自然の安全まで論じてほしくはない。論ずるなら「危険」である。一般に提示すべきは「危険」である。一般人には到底知り得ない危険を予測し提示することが学者の使命である。この提示された危険を人類が平等に知り、それをどう扱うかを判断するのが政治であり民主主義だろう。「国民が心配する。騒ぐ」と隠蔽しているうちは「民主主義」ではないのだ。個々にその行動の責任が持たされているのが真の民主主義だと私は考える。政府の重要な役割は極論をいえば「情報提供」ひとつしかないと思う。であるから日頃から政府も市民もそういうスタンスで事に当たらなければならない。惨事の時だけうまく動くなどむしのよい話しなのだ。
今、原発を進めようとしいる人は矛盾の中に生きていると思う。話すことに何一つとして確実な根拠がないのであるから。原発の日本におけるストレステストを保安院が評価する件の委員会のライブ中継を聞いた。基準は福島第一に訪れた震度と津波のようだ。つまり、想定といっても過去の事例から想定するにすぎず、想定したからといって何の安全の保証もないのである。そりゃあそうだろう。地震国日本で地震の予知もできないのだから、原発へのストレステストなど実効的でないのはあたりまえなのだ。そのストレステストだって欧米から持ってきたものだろう。そんな借り物で国の運命を左右するテストをやり続けようとする人達に責任感など微塵も無い。いや、本人は自分の任期中、目の前にある「テスト」を実行することが「責任」だと疑わないのだろう。こういう人達に安全の話しなどしてもわかろうとする回路が無いのだと思う。
安全に関する日本の最大の誤解は原発を他の建造物と同様に考えるところにある。他の建造物は最悪壊れてもしかたないというポイントがある。だからリスクを想定しそれに向って検討を押し進めることができる。しかし、原発に限っては最悪でも壊れてはいけないのである。このことを考えれば答えはひとつしかないだろう。その答えへの道筋はできているのだ。ところがその道があること知っていても、まだそこに出ようとせず他の道を探ろうとする人々がいる。自分達がやってきたことを否定したくないのだろうか。そう思う。それは日本が自ら戦争に終止符を打てなかった時と類似している。
ところで原発を進めようとする人の進める大きな理由はひとつ。「代替えエネルギーがない」である。しかしこの理由には条件があり、その条件には言及されていない。条件とは現在の生活水準を維持する、という条件である。まず、現在の生活水準を維持したいかどうかを問う話がでていない。または、これを維持するとしてそのために必要なことについてエネルギー以外に論じられていない。
世界から原発がなくなる(電気を出す原発がなくなる)シナリオは以下のとおりだ。
(1)どこかで想定外の条件により想定外の大事故(レベル8以上)が起こり過去に例のない想定外の事態となる。
(2)この事態から原発を持つことそのものが国を滅ぼすことになる認識を世界がもつ。
(3)原発廃炉ビジネスが振興、同時に新エネルギービジネスも振興する。
(4)廃棄物の処分と保存をどのようにするかが難問となって重くのしかかってくる。原発をより多く稼働してきた地域、国ほどそれは重い。
前述のフィンランドの話を繰り返す。廃棄物を10万年間安全に保管し続けなければならないのである。関係者はその10万年を想定しているのである。とりあえず想定しているが、誰も想定どおりにいくとは思っていないのである。あたりまえだろう。10万年経つまでに氷河期で人類は滅びることもあるのだそうだ。笑ってしまう。原発は未来に残すロシアンルーレット付き爆弾または巨大地雷なのだ。
上記(1)になる前に気がついてほしい。原発を続ければ続けるだけ、その廃棄物が増え、老朽化し、運用人材が不足することでリスクとコストが増えるだけなのだ、ということを。現在の利益を追い求めるあまり、新エネルギーへの転換が遅れ、負の遺産を抱えて生きる国になる。これは物語に例える事ができるだろう。舌切り雀だろうか、はたまた蟻とキリギリスだろうか。3匹の子豚かもしれない。
これからは各国の脱原発計画の競争である。どのくらいの期間で脱することができるのか、である。米も仏も本当はそう思っているのかもしれないがあえて公言しないのかもしれない。公言すれば現時点で世界のトップでないことは明らかであるからである。それだから余計に内密に水面下である日に向っているかもしれない。ある日とは原発をなくす日である。このへんは私の勝手な想像である。ただ、米仏が自立している国だと思うから、手放しで「原発推進」などとは原発推進者自身も発信していないのだと思う。自分がイニシアチブをとれる機会をたんたんと狙っているのではないだろうか。それこそ世界に原発を売るだけ売り、その後に廃炉ビジネスでも儲けようということである。このへんでも最も問題なのは「日本」であろう。米仏のもくろみなど知らずにただただ金魚の糞のように彼らに付いて行けばどうなるのか。
福島第一原発事故を生かせなくてどーする日本。過去の間違いを潔く認め、1からやり直すところに国民の力は結集する。今、日本はそういう時期なのである。
世界は大戦を2回行なっている。3回目はさすがに大国自らの存亡も危うくなったので回避されたが、それでも小戦(大戦に比較しての表現)を繰り返している。
原発はどうだろうか。世界で運用が始まった時、そこには明るい未来を描いている人が多かったようだ。しかし時間の経過とともに問題が次々明らかになり山積みされていった。それらは市民に直接被害を及ぼす事故が起きてから漸く市民に認知されるようになる。
何本かの原発関連ドキュメンタリー番組を見てこの記事を書き出した。
原発を多く使用する国である仏の状況は番組を見る限り深刻だ。電力会社が国営から民営となり、原発の安全管理に「費用対効果」がより色濃くなってきているのである。メンテナンスはどんどん下請けに任され、危険な作業ほど下請けの下請けなどに回る。リスクの高い代わりに賃金が高いと思えば、全く逆である。人材教育にかけるコストは削減され、人材は育たない。現場からは「今のメンテナンスは危険だ」と声が出ているとのこと。
人に幸福をもたらし経済発展の目玉とされた原発。運用してわかってきた危険を回避するために安全策を講じなければならないが、ビジネスとして成立させるために切り捨てられているものがあり、それは増え続けているようなのである。
大戦のように、多くの人が亡くならないと相変わらず人類は目を覚ます事ができないのだろうか。いや、これには語弊があるだろう。オーストリアやイタリアなど国民投票で原発廃止または廃止に向っているところもある。目を覚ませないのは人類ではなく、民主主義が正常に機能していない国ではないだろうか。そういうことからすると、米国や仏はどなっているのだろうか。個人の権利と自由を何よりも重んじていると見られている国だったが、ある種の利益のために個人の意見を封じ込めるこもと同時に強固に機能しているのだろうか。
チェルノブイリのような事故は10万年に1度想定されていたようである。しかし、実際にはこの30年の間にレベル7の事故が2回起きているわけである。これは学者の考える想定が如何に不確実性の高いものであるかの証明である。原発がここまで示してくれているのにまだ目が覚めない国々がある。きっといつか取り返しのつかない大事故が起きるだろう。それでしか目が覚めないのだろう。
ところで廃棄物の処分はどうなるのだろうか。フィンランドは決まっているようだ。ある強固な地盤の地下に何十年もかけて埋めていくとのことでそれは開始されている。そこに10万年は保管する必要があるとのことだ。この10万年の間に氷河期が来て人類は滅びるかもしれないとのこと。そこまで想定し、氷河期が過ぎ去った後、人類が復活し、この危険な地下に侵入しないようメッセージを残した部屋もつくっているそうだ。
しかし、どうだろうか。「想定」といっているが、それはあくまで現時点の「想定」である。そのことをわかりながら不安そうな顔をして話しをしている学者もいれば自信満々な学者もいる。前者が本当のところだろう。後者の思い上がりも甚だしい学者は多い。何をどのように論じても自由である、が人間と自然の安全まで論じてほしくはない。論ずるなら「危険」である。一般に提示すべきは「危険」である。一般人には到底知り得ない危険を予測し提示することが学者の使命である。この提示された危険を人類が平等に知り、それをどう扱うかを判断するのが政治であり民主主義だろう。「国民が心配する。騒ぐ」と隠蔽しているうちは「民主主義」ではないのだ。個々にその行動の責任が持たされているのが真の民主主義だと私は考える。政府の重要な役割は極論をいえば「情報提供」ひとつしかないと思う。であるから日頃から政府も市民もそういうスタンスで事に当たらなければならない。惨事の時だけうまく動くなどむしのよい話しなのだ。
今、原発を進めようとしいる人は矛盾の中に生きていると思う。話すことに何一つとして確実な根拠がないのであるから。原発の日本におけるストレステストを保安院が評価する件の委員会のライブ中継を聞いた。基準は福島第一に訪れた震度と津波のようだ。つまり、想定といっても過去の事例から想定するにすぎず、想定したからといって何の安全の保証もないのである。そりゃあそうだろう。地震国日本で地震の予知もできないのだから、原発へのストレステストなど実効的でないのはあたりまえなのだ。そのストレステストだって欧米から持ってきたものだろう。そんな借り物で国の運命を左右するテストをやり続けようとする人達に責任感など微塵も無い。いや、本人は自分の任期中、目の前にある「テスト」を実行することが「責任」だと疑わないのだろう。こういう人達に安全の話しなどしてもわかろうとする回路が無いのだと思う。
安全に関する日本の最大の誤解は原発を他の建造物と同様に考えるところにある。他の建造物は最悪壊れてもしかたないというポイントがある。だからリスクを想定しそれに向って検討を押し進めることができる。しかし、原発に限っては最悪でも壊れてはいけないのである。このことを考えれば答えはひとつしかないだろう。その答えへの道筋はできているのだ。ところがその道があること知っていても、まだそこに出ようとせず他の道を探ろうとする人々がいる。自分達がやってきたことを否定したくないのだろうか。そう思う。それは日本が自ら戦争に終止符を打てなかった時と類似している。
ところで原発を進めようとする人の進める大きな理由はひとつ。「代替えエネルギーがない」である。しかしこの理由には条件があり、その条件には言及されていない。条件とは現在の生活水準を維持する、という条件である。まず、現在の生活水準を維持したいかどうかを問う話がでていない。または、これを維持するとしてそのために必要なことについてエネルギー以外に論じられていない。
世界から原発がなくなる(電気を出す原発がなくなる)シナリオは以下のとおりだ。
(1)どこかで想定外の条件により想定外の大事故(レベル8以上)が起こり過去に例のない想定外の事態となる。
(2)この事態から原発を持つことそのものが国を滅ぼすことになる認識を世界がもつ。
(3)原発廃炉ビジネスが振興、同時に新エネルギービジネスも振興する。
(4)廃棄物の処分と保存をどのようにするかが難問となって重くのしかかってくる。原発をより多く稼働してきた地域、国ほどそれは重い。
前述のフィンランドの話を繰り返す。廃棄物を10万年間安全に保管し続けなければならないのである。関係者はその10万年を想定しているのである。とりあえず想定しているが、誰も想定どおりにいくとは思っていないのである。あたりまえだろう。10万年経つまでに氷河期で人類は滅びることもあるのだそうだ。笑ってしまう。原発は未来に残すロシアンルーレット付き爆弾または巨大地雷なのだ。
上記(1)になる前に気がついてほしい。原発を続ければ続けるだけ、その廃棄物が増え、老朽化し、運用人材が不足することでリスクとコストが増えるだけなのだ、ということを。現在の利益を追い求めるあまり、新エネルギーへの転換が遅れ、負の遺産を抱えて生きる国になる。これは物語に例える事ができるだろう。舌切り雀だろうか、はたまた蟻とキリギリスだろうか。3匹の子豚かもしれない。
これからは各国の脱原発計画の競争である。どのくらいの期間で脱することができるのか、である。米も仏も本当はそう思っているのかもしれないがあえて公言しないのかもしれない。公言すれば現時点で世界のトップでないことは明らかであるからである。それだから余計に内密に水面下である日に向っているかもしれない。ある日とは原発をなくす日である。このへんは私の勝手な想像である。ただ、米仏が自立している国だと思うから、手放しで「原発推進」などとは原発推進者自身も発信していないのだと思う。自分がイニシアチブをとれる機会をたんたんと狙っているのではないだろうか。それこそ世界に原発を売るだけ売り、その後に廃炉ビジネスでも儲けようということである。このへんでも最も問題なのは「日本」であろう。米仏のもくろみなど知らずにただただ金魚の糞のように彼らに付いて行けばどうなるのか。
福島第一原発事故を生かせなくてどーする日本。過去の間違いを潔く認め、1からやり直すところに国民の力は結集する。今、日本はそういう時期なのである。
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