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2011-10

やらせと日本社会

原発に関連した「やらせ」が問題になっている。

ここで考えなければならないことは私たち個々の「やらせ」ではないだろうか。明確な「やらせ」ではなく、個々に存在する弱い「やらせ感」とでも言おうか。そういうもので物事を進めてしまっている経験はないだろうか。

私自身記憶に蘇るだけでもいくつか「やらせ」を経験している。その経験の後には何の満足感もない。

「やらせ」に関する種類は様々だろう。あるイベントに知り合い関係を大勢呼んで盛り上がった気になるのもやらせだと思う。それが他者へ直接的に害を与えなくても、確実にイベントを主催した者には害となって蓄積されるであろう。

お役所がある企画案をたてた。その企画の実施を確実にするための根拠がほしいと考える。それでアンケート調査をする。アンケート調査はシンクタンクに依頼する。シンクタンクはアンケートの結果が企画実施に向うよう巧妙に質問項目をつくる。こういうケースが役人の頭脳を退化させ、税金を浪費するのである。

私たちが遭遇する「議論の場」で少数多数に関係なく、誰かの意見を真剣に聞き、その奥を知ろうとし、そこから議論を展開しようとするケースはあるだろうか?拍手の中に埋もれた意見を真摯に受け止める議論の場はあるだろうか。人間は弱い。集団になると持っている意見を言えなくなる。または心理的にそういう構造になっているのだろう。

こんな話がある。試験場に試験官1人と受験生1人がいて試験が始まる。試験最中に試験官が倒れる。すると受験生は試験官を助けようとする。しかし受験生が複数になると状況が変わってくる。なんと、倒れた試験官を助けようとする人がしばらく出てこないのである。これはあるTV番組での実験なのであり、あくまで参考である。

この試験官の話しを私は議論の場に思う。
話声が大きかったり、一般的に受け入れられそうな意見をいう人であったり、意見を言うのが得意であったり、実際に話がうまかったり、とそういう人の話が議論の場の空気をおおう。どれだけ貴重な意見を持っていても勇気がなければ話しだせないし、仮に話しをしてもそういう話しに耳を傾ける姿勢がその場になければその話は消えてしまいがちだ。
私はこういう場に「やらせ」の温床があるのだと思う。

大人になればなるほど未知を恐れ自分の知識と経験で固めたくなるのではないだろうか。そういう人々が集まる中に本当の議論は起きにくいだろう。
大切なことは「未知への挑戦」だ。これを楽しみ求める土台があってこそ、そこに議論が巻き起こり、「やらせ」を吹き飛ばすのである。
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テーマ:これでいいのか日本 - ジャンル:政治・経済

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