2011-09

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「国が」を「国を」に

あるTVインタービューで行政職員が管轄住民から被災に関する相談を受けていた。そこでその行政職員から出た言葉は「国がやってくれない」である。

こんなシーンが日本全国に蔓延していないか。言われた住民は「うーーーーん」と黙り込むしかない。

ある市町村では原発事故関係で問題になっている学校給食に関し、独自に放射能の基準を設定し、独自に食材を調達しているそうだ。国が信用できないため、地域の行政、学校、住民が相談して決めた事だそうだ。本来、国が国民の信頼を受けて厳格なる安全基準を設定しなければならないところなのだろうが、その国が正しく動かない。だから地域が独自に動いたのである。「国が駄目なので、地域がやった」という例だ。
この例は子どもの体に関わる大問題であり、このような動きが加速されたのだと思う。

私が接していて自治体職員の悪い意味で最も特徴的なのは何かを相談された場合、「それはどこどこでやっている」と自分以外の担当を紹介するのが実に早いことである。これと同様なこととして、「それは法律で決まっている」があり、そして「それは国がやる」である。

このような言葉を発した後に、「では、私が何々してみます」という自分を主語にした言葉あれば相談した方にもまだ道が何かある。しかし、何もない。そして諦める。せいぜい次のたらい回し場所を聞けるくらいなのだ。

自治体職員が自分を主語として住民と接することがない限り、そういう地域には「自治」「自治体」「地方分権」などありえないと私は思う。かりにそこに「自治」という表現が示されていたとしても、それは単なる飾りである。「国が」の発想のうちは「自治体」ではなく「御用自治体」なのだと思う(御用自治体の良否は別として)。

真の自治を冠する自治体は「国が」ではなく「国を」でなくてはならない。現場(住民、地域)のため、国を動かさなければならない。自治体職員にそういう視点や立ち位置がなければならない。そうでなければ、公務員の言っている「自治」「自治体」なんて住民には到底理解できないし、理解したいとも思わない。そういう理解のない中で「自治」は何も進展しない。









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国民は堂々と批評すればいい

 菅内閣総辞職間近のある日、ある方に聞かれた。「管さんでなければ誰がいい」と。私は「うーむ」と押し黙ってしまった。「ねっ、他に誰もいないでしょ。だから管さんでもいいのではないかしら」と言われた。「いや、言葉の信用できない管さんは総理として極めて不適格です」と返すにとどまった。

 後で冷静に考えてみた。国民に総理を直接選択する権限はない。ですから、選択するための情報もないし、選択する話しができなくてもいいのである。もし「誰々がいい」というなら、それは何を根拠に言っていることなのだろうか。読者の興味を引こうと、あーだこーだとあるようなないような人間関係を記事にしているマスコミからのものではないのか。

「首相は誰がいい」と聞かれてそれに答えるほうがおかしいと思うのである。答える人は一体何を判断基準にしているのか。

 今の制度では内閣ができ、そのアウトプットを見て、それを批評すればいい。良ければ良いし、悪ければわるい。批評ばかりして何もしない、ということはない。堂々ともっと国民は政府を批評すべきである。そして、マスコミはそういう声をできうるかぎり的確に表現してほしい。

「政治に無関心」という声が聞かれる。
このことは国として危ういことだ。数年や数十年はなんとかやっているかもしれない。しかし、単位を百で考えたらどうなるか。

本当は「政治」について国民が認識を変えていかなければならないのではないだろうか。「政治」から出てくるイメージはなんだろうか。そこに自分自身がきちっと関わってイメージできるのだろうか。そんな根本的なところを何とかするところに日本の将来があると思う。所謂政治家が「明るい日本」「元気な日本」「このままでは日本は潰れる」といろんなシーンで声を上げている。しかし、それは完全に一方向である。政治とは双方向でなくてはならない。

テーマ:これでいいのか日本 - ジャンル:政治・経済

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