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2011-06

脱原発の市民は明るい

ニュージーランドでしたか。TVのインタビューに市民が答えていた。
「市民の税金負担が高いとしても原発を使っていないのだからOK」という旨の発言だった。

TVを見ている私の気持ちがそうさせるのか。ともかく答える市民の表情は明るい。
イタリアの国民投票で脱原発が決まった時の市民の表情もそうだった。

人の顔の表情って不思議と誤摩化せないと思う。
例え電波とブラウン管(今はディスプレーというのだろう)を通しても明るさを感じる。そして私は羨ましく思う。

綺麗毎ばかり言ってはいられない、と人にたしなめられる。そうだろう、実際の社会は知らなければ良かったと思うような構造が仕組まれている。子どもの頃はしらなかった。ただ大人になるにつれてわかってきた。だから「わかれ」といわれる。しかし、これではいつになっても良い社会になっていかないし、少なくとも良くなっていくための土壌が育たない。おかしなものはおかしく、それを正していくことが大切だ。しかし、おかしなものをなんでもないことのように運用している社会がある。それを正しいとさえ言ってしまうようになってしまっている。きっとどこかでわかっているはずである。心のどこかで。だから、そうした人々に真の明るい表情は見られないと思う。

ぼろは着てても心は錦、な社会は素敵だと思う。しかし、こんなことを言えば、「ぼろを着てては心も荒む」なんて言われる。さあ、どうだろうか。このへんに私たちが勝手に自分達を追い込んでしまったつまらない社会を感じるのである。

原発は何万年も生物に悪い影響を与える量の放射性廃棄物を出す。土中に埋めて分解したり、再利用できるゴミとはわけが違う。そういう処理できない負の遺産を後世に拡大しながら残しながらどうして笑顔でいられようか。例え笑ってもけして心から笑えない。錦は着てても心はボロとは言わないまでも心は晴れず、である。

ともかくなるべく早く原発から脱するべきであり、そのシナリオをいかに作り、そして実現していくか。そのシナリオにより動く市民は必ずや明るい笑顔を取り戻すだろう。



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