fc2ブログ

2009-07

余暇

皆が笑顔で暮らせる社会。
誰もが願うことだろう。

これからの日本。この願いに向かって邁進していきたい。

ひとつのテーマに
「平等」がある。

日本における最小限度の「平等」を築き上げることだ。

そのために最優先しなければならないことは
弱者の救済に他ならないと思う。
それが政治の一番の使命であると思う。

誰もが学び、仕事をし、衣食住余(余は余暇)に
困らないようにすることだ。
ごくあたりまえのことなのである。
しかし、余暇に関して真剣に考えられてきただろうか?

例えば家族。
毎日、皆でいっしょに食事をすることは大切なことだが、
そんなことができているだろうか。

大きな屋敷に住むものもいれば、住むところがない人も
いる。
政治は後者のためにあるのであり前者のためにあるのでは
ない。

大きな屋敷に住み続けたい人は政治に頼らず頑張るか、
住み続けることを止めればよい。

「余暇」という表現が適当でないならば別の言葉でも
よい。
日本の社会に大きく欠けているのは「余暇」だと
私は思う。

人として必要なことは、人同士支え合えることである。
それは「○○支援」組織が豊富にあれば良いということではない。
「余暇」を通じて人同士が交わりコミュニケーションし力を
出し合うことが大切なのである。

戦後、企業優先の社会だったのではないか?
そこを何度も何度も繰り返し反省することだ。
豊かになったのは企業のおかげか?
違うだろ!
企業でなく「人」なのだ。

「人」に必要なことは何だ?
そこを今改めて見てほしい。







スポンサーサイト



先進国???

地球温暖化、核不拡散、経済問題等々について
世界で議論されている。
サミットとか国連とかそういう場で。
先進国主導で。

地球温暖化で所謂先進国でない新興国から
「温暖化になったのは先進国の責任であるから、
もっと削減を大きくすべきだ」
との意見があり、先進国と折り合いが付かない。

新興国の意見は最もであろう。

世界・地球はどこかで成り立っているわけではない。
それぞれが機能してやってきた。
先進国の繁栄は先進国以外のうえになりたってきた。

世界・地球の各国・各人が平等でなければならない。
その理想に向かわなければならない。理想とは
単なる理想ではなく、向かわなければ理想にならない。

ところがどうだろうか。
先進国は自分たちを勝手に先進国と名乗り、
さも世界で共有したしような場を取り仕切る。

国連でさえ常任理事国などという見るところから
見れば全く納得のいかない組織なのだと思う。

今、世界・地球に共通する問題に取り組む時、
より多くの国の参加と議論が必要ではないのか。

食べることもできない人がいれば、
何百万ドルもお金をかけて無くても生きて行ける
ものを買う人がいる。
これはやはりどう考えてもおかしいのである。

先進国。自国で二酸化炭素を排出していなくても、
他国の排出に関わっていないのか?そのへんはきちっと
考えられているのだろうか?

これからは役割分担と平等へ向かう社会なんだ。
どこかの国が何かに秀でてイニシアチブを取ろう
としている間は温暖化問題は解決に向かわない
だろう。




減点主義

ある公務員のトップの言葉。
転勤の際の挨拶である。
「何事もなくて何よりです」
という旨のことだった。
これは私が知人から聞いた話だが。

「何事も」というのは所謂事件のことではない。
「問題」のことである。
このトップ、要するに減点が少なかったことを
自画自賛しているのである。

何か新たな取り組みをしようとすれば、
そこには数々の問題が生じる。成功すればいいが
失敗も当然ある。

失敗は減点される。
だから失敗しないようにする。
だから最終責任をおわないことを行うか、
失敗しないよう何もしないのである。

これで行政が良くなっていくのだろうか?


さて。
昨今、○○大臣辞任などの話が多々ある。
いずれも何かしらの不適当な行動による。
このことは当然なのであるが.........。

本来、成果で判断されるべきことがもっと
あるべきではないか。
「何かを行いこういう効果や道筋をつくった」
とか
「目標である○○を達成できなかった」
とかである。

マニュフェスト(政権公約)がいつのまにか
盛んである。
しかし、その公約を達成できなかったらどうするのか、
についてマニュフェストに記載はあるのだろうか?
100%とはいわない。失敗することもあるだろう。
60%でもいいと思う。そこをクリアできたかどうかが
もっともっと問われるべきだ。

失敗、問題、失態などをチェックすることはもちろん
重要なのであるが、もっと政策や実施した事項に関する
内容をチェックしなくてはならない。その結果によって
「辞任」する知事や政治家、行政トップがいても
いいのではないか。

通常は「選挙」がこの役割を果たしているのだろう。
市民がシビアにならない限り、政治は変わらない。
市民が減点主義に走れば、政治もそうなっていく。

«  | HOME |  »

プロフィール

中山慶一

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する