2017-05

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カーボンオフセットの矛盾

地球温暖化ガスの削減を地球規模で進めるための一つの方策として「カーボンオフセット」というものがある。名前だけなら何となく聞いた方も多いだろう。また、その内容も何となく理解している方もこれまた多いと思う。私も漠然と理解していたので少し専門書を読んでみた。それでも、なんだかよくわからない。何かストンと頭に入ってこない。私の頭が悪いのかとも思ったのだが、どうもこの仕組み自体が穴だらけのものだと思えてきたのでそのことを書く。


下の図がカーボンオフセットに対する私の解釈と見解だ。
話を簡単にするためAさんとBさんとした。これを企業や何かの組織に置き換えてもいい。

さて、Aさんには「削減枠」が割り当てられた。Aさんは温暖化ガスを削減枠分、削減しなければならない。オレンジ色部分はなんとか削減できた。車の運転をやめて徒歩にして削減したわけだ。

ところがどうしても自分で削減できない部分があった。それがブルーの部分だ。よほど何か新技術でも開発されないかぎりこの部分の削減はAさんにとって厳しいのである。

そこで、AさんはBさんにお金を出した。Bさんはそのお金を元手に温暖化ガスを削減したのだ。そういうことで、Aさんは自分では削減できなかったが、Bさんという他人に削減してもらい、自分の削減枠をクリアしたのだ。このクリアを「オフセット(埋め合わせ)」という。温暖化ガスは主に二酸化炭素(CO2)であり、これをカーボンと言っている。よって「カーボンオフセット」というわけだ。

カーボンオフセット

問題はここからだ。
AさんがBさんに支払ったお金がどのように捻出されたのか、なのである。
その種類のいくつかを囲みの中に記載した。

要するにAさんがBさんに支払ったお金が、その支払いのために新たに発生したものであり、その発生のために温暖化ガスを新たに発生しているのならば、本末転倒ではないかと考えたのだ。もし、新たに発生している二酸化炭素が膨大ならば本末転倒どころか問題の拡大化になるとも考えた。

例えば、Aさんのお金の出所が次の場合だったとする。
Aさんは農作物を作って売っている。Aさん自体は温暖化ガスを排出していない(厳密にはしているかもしれないが、ここではしていないとする)。しかし、その販売はオンラインショッピングだ。つまり自動車の力で消費者に届く。AさんがBさんにお金を出すために沢山農産物を売ったとしたら、結局温暖化ガスは増えたことになるのだ。

カーボンオフセットの仕組みにはこのへんをチェックする機構が無いというのが私の見解だ。

埋め合わせしたようで埋め合わせになっていない。
そしてカーボンオフセットはお金のある人、組織、国にとって都合の良いトリックでしかないのかと考えるのである。

本当に温暖化ガスを削減しなければならないのであれば、所謂先進国と言われる国々(ある意味では先進国でもある意味では後進国であると思う)がそれぞれの欲求に歯止めをかけ、不要なものは削減するという、そうした単純なことをしっかりやらなければならないのではないか。「お金」を取引に使う時点で、極めて世界の国々に不均衡な開発や利益をもたらすだけだと思う。

私の疑問はおかしなものだろうか。


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地球的開発の抑制

中国で河川が汚染され流域の人達のガン発生率があっがたことがニュースになっていた。以前の日本の環境問題がそのまま中国に時を超えて繰り返されているようでならない。
日本は過去の過ちを繰り返していないだろうか。
国内ではなく国外に汚染のきかっけを蒔いてはいないだろうか。
中国で深刻な原発事故が起こればそれは日本にも大きな影響を及ぼすことも十分予想される。にもかかわらず、原発を発展途上の国々にばらまくのか。

アフリカの開発が心配である。
この自然の地に無計画に開発をすすめればどうなるのか。

所謂先進国は地球レベルで開発に関する計画を建てなければならない。そのためには経済発展の抑制も自ら行わなければならない。

世界の貧困を無くすための条件。それは欲望の抑制に他ならない。今、所謂先進国にこの抑制が課題としてつきつけられているのである。

知れば知るほどに知らないと知る

TV放送大学を聴講してのことです。
明治神宮の森は人口につくった割には立派な森だそうです。
その森の地面の足跡程度の広さに一体どのくらいの生物が存在するのかある学者さんが調べたそうです。細かい数値は忘れましたが、ミミズやダニがそれぞれ数万匹、他にも沢山の種類が数千から数十万の単位で存在するとのことです。ミミズの数には驚きましたが、もしかすると聞き間違えかもしれません。まあ、ともかく私たち一般人の想像以上の種類と数の生物が身近な土の中にいることは確かなのです。

生物学者は生物のことに当然詳しいのですが、詳しいと思っていても地球に存在する生物の99%は未知とのことなのです。ちなみに知っている1%は200万種類程度とのことでした。こうして知っていくと、実は知らなかったことがわかってくるわけです。物事とはそういうものだと改めて思った次第なのです。

ところで、それでは生物学者は何も知らないのかというと、そんなこともないそうです。地球上の生物はある一定の規則により生きているということなのです。エネルギーを生成させることや遺伝の方法など6点くらい説明がありました。地中のダニと私たちは基本的に同じということなのです。

ここまでくるとまた「知ってきた」となります。

さて、ここで考えこみました。
放射線はダニにどのような影響を与えているだのろうか、と。どなたかわかりますか。そうです。またわからなくなりました。

そして想像すると恐ろしいことがわかると思います。
生物は複雑な連鎖で成立しています。その生物のそれぞれを私たちは同じ様なものとして考える事ができる一方、個々の生物に対して放射能が何をもたらすかわかっていないのです。しかも、知っている生物は1%だけです。

このように考えていくと、現実は恐ろしいと思えます。特に自然に逆らった場合、恐ろしいと気づいてきます。なにかの生物に異変が生じ、その生物が消滅したり、変質することでそれまでにあった連鎖が変わると想像できるのです。草がなくなればその連鎖で肉食動物が大きな影響を受ける事は学校で教わりましたから、連鎖については誰しもわかると思います。しかし、目に見えない連鎖についてはわからないし、見えないからなのか「大丈夫」と安易に考えてしまっているところがあるのではないでしょうか。「へーき、へーき」と。寸断された連鎖が私たちに影響を及ぼすまでに何年かかるかわかりません。数年かもしれないし数万年かもしれません。いずれにせよ、目に見えてわかった時には遅いのかもしれません。

福島第一原発事故が起きて数日後に、放射能が海洋の食物連鎖に与える影響に関して水産庁から「大丈夫」というようなコメントが出ていました。出たのは確かです。どういうレベルのコメントかわかりませんが、記憶している人は記憶していると思います。
「大丈夫」というこの言葉。自然に何かしでかした場合、これを言えるのは神様くらいしかいないのではないでしょうか。見識の深い学者ほど「なんともいえない」と答えるのだと思います。

人と自然との付き合いということでは私はインディアンを思い出します。インディアンに詳しいわけではありませんが、自然を尊重しながら生きてきた人達と思います。
私たちは日頃「インディアンのように生きよう」といえば、「君、車も飛行機も捨てられないよ」とかそういうことになるでしょう。しかし地球規模的に世界的に「地球温暖化」とか言い出したということは、人類として自然との共生を真剣に考えなければならない時にきていることの現れだと思います。そして、今すぐ何かができなくても、自然を尊重していく心を一人一人少しでも心のどこかに灯せればいいと思いますし、そういう時代に差し掛かったと思うのです。


以上のことから次に行き着くのです。

自然と原子力を知れば知るほど、知らないということがわかってくる。

放射能に関して「大丈夫」と言い切っている学者のその根拠は「人類の経験」でしかないのです。理論的な根拠を聞いてみてください。恐らく出てこないはずです。経験が駄目だということではありません。ただ「経験」と認識するのと「論理」と認識するのでは月とスッポンのような差があると思うわけです。

「人間が人口的に生み出したものは基本的によくない」
「しかし、人工的なものによって世界の一部のひとたちが恩恵をうけている」
「その恩恵は人間の欲望によるものである」
「人間の欲望は人間を進化させるが人間をも滅ぼす」
「結局、人間にとって大切なのは欲望の使いどころである」
というふうに思い巡りました。


「欲望の使いどころ」
これを個人レベルで地域レベルで国家レベルで人類レベルで常に考えていくことが大切だと思いました。







テーマ:ぶつぶつ - ジャンル:日記

自然を感じること

2010年夏。
天気予報の外れが多いそうだ。
気圧が不安定なため、気象庁の最新の機器をもってしても難しいといういことである。

予想しない豪雨により被災する。
普段はない気温により熱中症になる。
こんなようなことが多い夏なのである。

こんな天気予報の外れにクレームを入れる人もいるそうである。
「洗濯したら雨になってしまったじゃないか」など。

自然災害の場合、その予想や実態に関する情報提供にに関して問題視される。
それはひとつの側面から考えなければならないこととして良いだろう。ただ、もっと個人の自然に対する洞察力や想像力、感じ方について反省するべきだ。

前述の不安定な気圧の変化、機器では感じれなくても生身の人間にはわかることも多々あるのだ。それこそ毎日空を眺めれるし、風を湿度を温度を感じれる。こういったことも重視すべきだ。

文字や映像による情報ではなく、自分が肌で感じる情報に対してどのようむ向き合っているのか。このへんについても常に言及することだ。



地球温暖化にはビジョンが必要

現実に進捗する地球温暖化。
「二酸化炭素何パーセント削減」
というような目標が国や会社やその他セクションで
掲げられている。

私にはどうもこれらの取り組みに
いまひとつ何かが欠けているようでならない、
と感じる。

他国のことはさておき日本に関して。

世界に対して外面を良くしようとする日本を
感じる。
環境技術でPRするという。技術立国日本
だった?から成り行き上、不思議は無いが。

しかし、今、自然から日本が世界が本当に
求められて
いるものは「削減技術」ではないと思う。
もっともっと根本的なことが求められていると
思う。


人間が欲を満足すべく開発が進んだ結果が
今なのである。このことを避けていて、削減
削減と叫んでいることは全体的な削減に繋がら
ないと考える。
いまだ、2次産業の売り上げ減を問題視して
いる。トヨタが売り上げ世界上位として
賞賛される時代は終わったと考えるべきだ。
一方で削減しながら一方で二酸化炭素をバラまく
事業が展開されている。


技術を持った国が世界を開発し、その代償として
地球環境が破壊された。
そして、開発は貧富の格差を生んだ。


今、世界はあるポリシーのもとに開発を進める
ことをしなければならない。
ここでいう開発とは従来イメージする土木や建設
ではない。
世界の貧富差をなくし地球環境をもとに戻すための
開発だ。


所謂、地球環境を破壊してきた先進国は、「開発」
の転換を図らなければならない。
そこを考えずして何がサミットだ。地球温暖化だ。
先進国だ。
削減技術を開発したって、一方で道路や住宅地を
つくるため木々を伐採していては何もならない。


交通や流通。その便利さを求めれば歯止めはない
だろう。

いろんなことが短縮された。
しかし、暮らす人の幸福感は増しただろうか。
増すどころか、減ってさえいるのではないか。


私にも何をどうしたらいいか明快なものは
いまのところない。
ただ、日本が自然環境において世界のリーダー
にならんとするならば、単に削減技術のみでなく、
開発のあり方について示していかなくては
ならないと思う。
一人当り二酸化炭素排出量を世界の上位にしな
くてはならない。今の状況では、ちゃんちゃら
おかしい実態である。


参考
http://www.jccca.org/index.php







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中山慶一

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