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2024-03

50年前

父と母、弟と4人で神奈川から東名高速で大阪に向かった。
家に祖母と3歳になる弟を残して。

車は中古の2代目トヨタコロナ。
箱根あたりで雨だっただろうか。あとは覚えていない。

アメリカ館は3-4時間は並んだのではないか。夜、月の石を見た。月着陸船などもかすかに記憶がある。ここまで来たら見なければならない。そういう感覚だったと思う。
あと記憶にあるのは緑館。変わった形の建物を帰って夏休みの宿題の絵にしたから覚えている。内容は天井一杯に写った動画だった思う。

その他、パンフレットとにらめっこしながら、入場できるところをみつけて入った。人気のところはアメリカ館以外どこも入れなかった。日本館、三菱未来館、他。
灼熱の太陽のもと、冷たく甘いミルク入り緑茶は美味しかった。迷子にならないよう気をつけた。それほど猛烈な混雑ぶりだったのだ。

最終日、父がソ連館に行きたいと、ごねた。あの建物は壮観だった。他3人は完全にあきらめていた。陽が西にあるその時、母が笑いながら「お父さん、一人で行くみたい」って言ってたシーンを思い出す。結局、行かなかった。

ビジネスホテルの二人分のベッドで、4人ごろ寝だった。生まれて初めて足が痛くて寝れなかった。歩きすぎたのだ。

皆で弟にTシャツを買った。万博を象徴する建物がいくつかデザインされていた。太陽の塔はもちろんあったと思う。この塔はやはりインパクトがあった。帰ってきた後だと思うが、テレビで岡本太郎氏の太陽の塔製作過程のドキュメンタリーを見たことを覚えている。つくったものを、あの埴輪のような鋭い眼差しでぶち壊しているシーンが印象的だった。

ともかく、夏休みの宿題は万博が題材になった。絵を何枚か描いたが、作文を書いたかどうか覚えてはいない。当時、私が何をどう思っていたのか、それを書き記していたなら、今、見てみたかった。

1970年。戦後25年しか経過していない。沖縄はまだ返還されていない。当時のTVドラマを最近見ると改めて驚く。戦争で身内を失った話が普通に出てくる。コメディアンのTVコントでは「戦地に行ってまいります」っていう兵士をコントのネタにしている。戦争に対する人それぞれの様々な思いが渦巻いていた時代だったと思う。
祖母は戦時中いもばかり食べていたと言っていた。父は、東京に向かうB29を空に眺めていたという。母は福井に弟と疎開していた話をする。なぜか、彼ら本人が何をしていたという話は聞いたが、戦争の背景や理論等、根本的な事については聞かされた記憶がない。皆、子どもの私にどのように話をしていいのか、わからなかったのだろうか。話していたが、私の頭をすり抜けていたのだろうか。

この年、ある日曜日、父に車で靖国神社に連れていってもらった。
衝撃だった。息子から母への血で染まった手紙。玉を貫通した玉。何がどうのという説明のつかない衝撃であった。帰りのカーラジオから聞こえる歌がなぜか忘れられない。石田あゆみの「あなたならどうする」。あくる日学校でも一日中この曲が頭を流れていた。
三島由紀夫が自殺した年であり、翌年1月は葉山御用邸が全焼した。そんなことを覚えている。

当時の万博や時代を振り返った。戦争で多くの人と物を失った。それでも何とか日本という国という共同体は無くならなかった。もし無くなっても仕方ないくらいの戦争だったと思う。生きていくために、焼け野原から復興するために日本国民は一丸となったのだろう。本当にそうだったかは私にはわからないが。私の生まれたのは万博のちょうど10年前。当時の私には街に戦争の痕跡は感じなかった。
欧米のような暮らしを目指し、戦争の後を塗りたくっていった時代だったと想像する。基本的には欧米の物真似である。それも良い。そこから新たに日本の国土に合うように考え抜いていけばいいのだから。もちろん物真似だけではなかった。日本独自の考え方も加味していった。

ただ、どこか不均衡な非健全な過程で今日まで進んできたと思う。自ら考え抜く自治力が抜けているのだ。江戸時代にはあったと思われる、そうしたものが、武力をかざしてきた欧米との交流で変質し弱体してしまったと思う。その結果が福島第一原発の事故であり、ITにおける後進国化だ。このへんは私の感覚だ。

3年後、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに大阪万博が開催される。現在の準備段階は、このテーマに対して既に開催状態であると思う。私はこのテーマをこの万博がどのように捉え何を世界と共有していくのか、興味がある。 特に「人間と戦争と、いのち」についてどう捉えていくのか。 

どうなるかわからない。閑古鳥がなくのか。まあ、メディアのごり押しで帳尻を合わせるのか。しかし、人は何かのエネルギーで動くわけであり、そのエネルギーはどこからいつどのように出てくるかわからない。もしかすると、50年前よりも意義のある、万博になるかもしれない。

父は一昨年他界した。遺品を少し整理していたら、万博の資料がいろいろ出てきた。ホテルや高速道路のレシートまでとってあった。それらを見た時、ソ連館を眺める夕方のあの父を思い出した。

エネルギーと記憶。
そんなことを今、思う。
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隣の芝生

個人でも組織でも「隣の芝生」は良く見えがちである。

「お隣の車は立派だ。我が家もあういうのを持てたらいい」
とか、そういうことだ。

組織ということでは「国」レベルでもある。日本で良く言われるのは「米国はこうでここがいい」である。

別にこれらを否定はしない。人間、多かれ少なかれ、何かを模倣し、何かと自分を比較しながら成長するからだ。
ただ、これらにかける思いの時間(隣の芝生を見る時間)はほどほどにしておくのがいい。

大切なことは自分自身がどれだけ成長したのか、だと思うからだ。

「どれだけ」。これは何も物質的なことではない。何を持ったとか、そういうことでもない。
自分の中にある「どんな山」をどのように乗り越えたか、そこが問題だ。

私と国道36号線

1半くらい前にあるところでお話した文です。
私と北海道の大切な関わりということで掲載します。


*******

 中学、高校と進むうち授業に追いつかなくなり、高校卒業の時は学年450人中お尻から3番以内だった。最後に受け取った通信簿にAからEランクまでの人数分布を示す紙が張られていたが、そのEランクの欄に表示された数値3のうちの一人が自分だとわかるのに時間はかからなかった。私の学習方法は参考書を読みながら一つずつ疑問を確かめていくものであり、教室の先生の話は頭にほとんど入っていかなかった。だんだん疑問を解決するのに時間がかかるようになっていった。マラソンでいえば途中の寄り道が多すぎてゴールした時は誰もいなかったような状態だったと思う。

 こんな私であったが北海道の大学に行きたかった。希望は地球物理学だったが、それよりもまず北海道に行きたかった。現役では当然のように受からなかった。私の高校で一浪は珍しいことではなく友人達と東京の予備校に通った。しかし、基本的な学力のない私には予備校にもついて行けず1年かけて受験した大学は全て落ちた。インベーダーゲーム全盛の年だった。

 さらに1年予備校に通ってもうまくいかない気がした。そこで、当時札幌で独身貴族だった叔父のところに居候、自宅浪人することにした。自分の環境をとことん変え、勉強に集中すること以外に道を切り開くことはできないと考えたのだ。自宅の和室で父にお願いした。父はただうなずいてくれた。ちなみに私は三人兄弟の長男である。

 札幌での二浪目は何もかもが日々新鮮だった。勉強だけでは大変だろうと、先に北大に入学していた友人が気遣ってたまに遊びに誘ってくれた。高校の友達からは何通も励ましの手紙をもらった。社会人ボート部の叔父には幾度か茨戸に連れていってもらった。多くの方に励ましてもらいながら、私は北大の図書館で自習した。秋の暗い帰り道、当時は札幌に沢山あった様々な喫茶店で持参した「宮本武蔵」を読むのが楽しみであった。

 3月4日二次試験の後、私はもしかすると駄目かもしれないと思った。発表までの二週間は覚悟を決める時間だった。叔父は駄目だったらもう1回チャレンジするよう言ってくれたが、私は先行して合格していた京都の大学に行く事にほぼ決めていた。もう浪人はしたくないと心の底から思っていたからである。父と母に手紙を出した。もし合格できずに帰る時は許してほしいというようなことを書いたと記憶している。

 発表当日の朝、既に出勤していた叔父に書き置きを残し、実家に帰る身支度をして合否掲示板に向かった。自分の番号があった。誰にどう電話したのか覚えていないが、ともかく実家に帰り母に会いたいと思った。心と体がそのようになっていた。

 千歳空港まではバスに乗った。バスは国道36号線を走る。札幌の街中を抜け、車窓には家もまばらになった野原が映ってきた。その時、自分のほおにつーっと何かが伝うのを感じた。窓の風景が目に入ってきたら勝手に目から流れ出てきた。それから国道36号線は帰省の時に何度か往復した。いつも何故か札幌の街中に入る時、ちょうど豊平川が見えてくるぐらいの時、心がすーっと落ち着いていくのを感じた。北海道の空気が自分に合っていると、その度に思った。

 今年の3月、父が8時間の心臓手術を受けた。母は「もう一度だけお父さんに家に帰ってきてほしい」と言っていた。手術翌日、麻酔から醒めた父の手を物心がついてから初めて握り「大丈夫だぞ」と励ました。一週間実家で母をサポートした。母に料理を作ったのも初めてだった。スーパーの買い物、昔はよちよち付いて歩いただろうが、今は、母の後ろ姿を「意外にしっかり歩いている」と感心して見ながら、私は買い物カゴを引いている。50年という歳月の流れを思わず感じてしまった。父も母も仲良く何とかやっている。叔父とは年に1、2回、叔母と妻と4人で一緒に食事をする。

五輪エンブレム

五輪エンブレムを作ってみました。

olympic-emblem


TOKYOと2020の間にある五輪の重なったマークは、五大陸(世界)が平等に対等に心を合わせるという意味です。
その先に上の「笑顔」があります。「笑顔」は世界のお互いの理解と協力、平和があって初めてできます。
周囲の円の右が二重で左が1重なのは。世界には違う価値観や対立する意見があります。それはそれで大切なことであり、主張するべきです。が、しかし、そこからお互いを尊重して一つになることも目指していくのです。
TOKYO2020は心から皆がよかったと笑顔を交わせ合える誠心誠意のある大会であることを願うばかりです。

global.jpg

個人の権利と義務

ある判決から考えることだ。
そのある判決は図のとおりだ。これは朝日新聞社のホームページの画面である。同様な記事は読売新聞の紙ベースでも掲載されていた。

この判決、それを伝える記事、どちらも私には納得いかない。

結論から言う。
このような道路に簡単にボールが出てしまう壁しか設置できていなかった小学校の責任であると考える。その壁の設定や管理が教育委員会にあるならば、教育委員会の責任であると考える。子どもやその親に責任が問われる意味が私にはよくわからない。

子どもではないが、徘徊した老人が電車に跳ねられ死亡した。その事故による損害賠償を電車会社から徘徊老人の子どもに請求したそうだ。同様なことが全国各地であるようだ。

本件で考える事は「個人の権利と義務」である。
これが日本でどのように取り扱われているかとりまとめることが容易ではないことはわかっている。解釈も個々にばらばらであろう。だから、本件のような裁判結果が出るものと思う。

個人が他人(親族であるかどうかの区別はない)に対してどういう権利や義務があり、また逆もどうであるか。これは個人の権利を尊重するのであれば必要最小限に止めなければならない。他人を監視する義務があるということは、そのぶん自分の時間を束縛されるということである。子どもが成人するまで親に一定の子どもの監督義務が生ずるのは理解できるが、成人後の監督義務は不要だと考える。成人後は1人の独立した成人であり、その社会的責任は誰かを通して存在するものではなく、本人にしかとりえないものと考える。


日本ではこの個人の権利と義務が曖昧だと思う。
そのことが弱者の存在を蔑ろにしていることにも繋がっていると思う。弱者になにかあればその家族に責任を負わせればすむという節がある。または、本来弱者のために社会的なあらゆる場面のバリアを取り去っていくことを進めて行かなければならないにも関わらず、そこを怠慢にし、家族に負担を強いているのである。

徘徊する老人は社会が見守っていかなければばらないのである。それが社会(国家)と個人との補完関係であると考える。

本件は本来社会が行政がやらなければならないことを、子どもとその親に転嫁したものだと考える。こうした判決を下す裁判官の思考能力の無さにもあきれる。前例を周到していればそれでいいだろうという精神が裁判官に働いているのではないだろうか。

小学校の校庭でのびのび運動ができない。そんな国に日本は成り下がりつつあるのである。

保育園児が近隣住人にはうるさく、保育園の開園ができないところがあるという。この件で住人がいけない、などの意見が見受けられる。これも、個人の権利と義務を蔑ろにしている事例だと思う。子どもの声はある年齢になるととてつもない騒音になるという研究結果もあるという。そのような騒音を我慢して住めというのはおかしい。逆に子どもたちを高い塀の中に閉じ込めてしまおうという対策もおかしい。これらは都市計画の問題、日本の人口分散政策の問題であるはずなのに、そこに言及しない。

まちは経済のためにつくるのではない。人のために人と人の交流のためにつくるものであると思う。そこには人の個人の権利と義務について常に考えるものがなければならないと思う。





<図>
asahi.jpg

今、日本に必要なこと

 民がまちづくり(地域でも国でもどちらでもいい)に主体的に参画する気持ちになれること。そういう環境づくりが日本にとって一番必要だと思う。

 何故今更こんなことを言うのか。中央政府やその周辺にいる人達はこのへんのことをわかっていないように感じるからである。自分たちが国民のために何かお膳立てをすれば国民が元気になるというような勘違い、何かお膳立てをしなければいけないという勘違いが多いと思う。

 中央政府がやること。それは民がまちづくりのお膳立てをする方向に持っていくべきなのである。もちろんそういう気持ちが自発的に民に起こるようにすることが前提であることは言うまでもない。

 町内会で役員達が「役員の担い手がいない」と嘆く。しかし、嘆いている割には担い手になる可能性のある芽を見ていない。町内会のあり方を反省したり改善したりする発想に乏しく、担い手の無さを「若者の無関心」と決め込んでいる節がある。

 この町内会の例は地域づくり国づくりの場にもあてはまると思う。「日本を元気に」という言葉がこの数年メディアに頻繁に出てくる。この「元気」とは自然環境に例えれば雪解けで地面から木の枝から出てくる「芽」の様子ではないだろうか。

 どうしたら「芽」が沢山出てくるのか。





 

遠くに離れるという事

 通信と交通がこれだけ発達したならば「会おう」と思った時に会いに行き、伝えたいと思った時に伝える行動はできるのだろう。しかし、自分でいくらそのように思い考えても相手が受けるかどうかはわからない。いつも身近にいて相手のことが何となくでもわかっていればそれを考えて会う事ができ伝えることもできるかもしれない。が、離れていればお互いに知っているようで何も知らない。まあ、離れていなくても知らないことは多いのだが、離れることをもう少し深く考えてもいいのではないかと思ったのだ。

 ある俳優さんが言っていた。仕事で親と離れて暮らすことになった。その時点で親と会うことはない覚悟をした、というようなことだ。一般的には「帰省」という形で親とは離れた後も会うと思う。しかし、人によっては、例えばこの俳優さんのような決意と覚悟の場合などは該当しないのである。

 離れるということは会いたい時にいつでも会えないのであり、話したい時にいつでも話せないことを意味するのである。だから一期一会というのは本当に大切なことだと思う。たった数時間の出会いが一生心に残ることもあるだろう。人の暖かさのようなものが自分の心を暖かくしてくれる。自分もまた少しでもわずかでも熱源になれたらうれしい。

 人はいつまでも暖めあうことはできない。けれど、一時の暖め合いがそのまま心の中で続くのだと思う。永遠に。

弱さは強さへの道

 地球誕生から現在の人が登場するまで。人は進化を経てきた。地球は途中で何度か生物にとって壊滅的な状態になった。地球上の生物の95%が死滅するようなこともあった。恐竜が絶滅した話は有名であろう。

 一般的には強いものが生き抜いてきたと頭に出てこないだろうか。しかし、どうやら進化の過程を眺めていくと弱いものが生き抜いてきたといえそうなのである。それはどういうことか。

 弱いものは強いものの陰で耐え忍ぶ。身を守るためのノウハウを身につける。身につけた結果や身につけるためのプロセスが弱いものを強くする。言い換えれば次のようなことだ。強いものと弱いものがいる。これは両者を相対的に比較した話である。しかし、この両者を例えば「地球」を基準にして絶対的に評価すると、弱いものが一気に浮上するのである。

 この絶対的評価で考えてみれば、人間は地球上の生物で最も弱いものであるかもしれない。裸のまま森で一晩生きられるだろうか。そう自問してみた。

 ピンチはチャンスといはよく言われる。これも今回のテーマに関連したことなのだと思う。一見弱いものであることを恥じることはないのである。これは社会的立場でも勝負ごとでもなんでも該当すると思う。要は弱い状況をどのように耐え忍ぶか、どのように生き延びるかが大切なのである。そうした後で「躍進」とか「飛躍」があるかもしれない。しかし、そこには注意が必要だ。得た強さは一時的なものなのか、継続的なものなのか。

 いかにして生きて行くか生きてきたか。人はここに本物の強さが問われるのだと思う。

代理出産

国内では賛成の人、反対の人、半々程度だろうか。

私は医者に問いたい。赤ちゃんが体内にいる時の母の子どもへの影響について。
その影響があるのならどのようなことであるのか。

代理出産で生まれた人の実際の思いはどうなのだろうか。
私自身がそうだったら、私を生んでくれた方に会いたいし、その方を母として愛したいと思うかもしれない。
いずれにせよ相当複雑な気持ちになるだろう。

テレビで「子どもができなかったら生きていけない」という女性のコメントがあったが、そういう人に限って生きていけると感じてしまった。

代理出産を許可している国否定している国いろいろあるようだ。
しかし、生物としての一線を超えてしまっている事態であることは確かだ。
「そんなこと言ったら臓器移植とかなんだとかとっくに一線超えているじゃないか」
それはそうだ。

人間はどこでどのように生物としての進化から逸脱することに歯止めをかければいいのだろうか。
私にはわからない。
ただ、何かで間違えれば人類は滅亡するのかもしれないと思う。世の中は人間のためにあるわけでもなんでもないと思うから。

固定概念

「定年退職した夫みたい」とある人がある件で言った。

日本の女性がこういうことを発しているのによく遭遇する。直接的にも何かの雑誌等でも。

「定年退職した妻みたい」とは日本ではならないだろう。

「定年退職した夫みたい」
こういうことばが女性から発せられるうちは日本に男女平等参画社会などなしえないだろう。自分を不平等だと言っている女性自身が男性の状況を肯定し、そのうえでその男性を否定しているからだ。
「定年」というものを肯定し、そこに生きる男性の生き様を否定しているという意味だ。


本来「定年」は自分で決めるものである。自由とはそういうことである。

世界でも定年のあるところ、ないところ様々だ。だから、日本は日本で考えれば良いことなのであるが、「定年」ありきではいつまでたっても社会は良い方向に進んでいかないかもしれない。

もちろん理想と現実はある。しかし、理想を追求しないところに進歩する現実などない。

オーストラリア、イギリス、アメリカには定年はないようだ。アメリカでは履歴書に年齢に関する記載をするところがないそうだ。自由を確保するということはそういうことなのだ。日本はアメリカではない。が、何をどう決めるにせよ、その土台は日本のアイデンティティとして明確にされるべきであろう。でなければ、国として弱体かするだけである。

地球温暖化問題と詭弁

最近もニュースでやっていた。
あと世界の平均気温が2度あがれば深刻になる、というようなことを。

温室効果ガス削減の話がいつも話題になる。
しかし、話題にしなければならないのは、地球全体を通しての人類の生き方だと思う。

ガス削減に関してガスが出ない方法について論じられるが、ガスを出す必要性の有無について言及するニュースに出会わない。

例えば。
自動車は確かに便利である。エネルギーさえあればどこにでも人を運んでくれる。何百キロ先でも、何百メートル先でも、である。車を使って、玄関先までほしいものがやってくる。このままいけば、車はますます使われる。今まで使っていなかった国でもどんどん使われる。そしてガソリンのままではガスが増えるばかり。それでガソリンから電池にきりかえている。しかし、完全に切り替わるまでにはあと数十年はかかるだろう。ところが、放っておくならば、この数十年の間に使う車の数はうなぎ上りになるだろう。
自動車を使う必要のない生き方を人類は選択しないのだろうか。

エネルギーを消費して人間が欲を満たせば、そのエネルギーの排出が地球温暖化につながる、ということだと思う。

何を今更の戯言を、と言われるかもしれない。
ただ、私には地球温暖化問題が歯止めのかからない人類の欲望に「まった」をかけているものと思うのである。


心の入った行動。
わかるようでわからないことだと思う。
できるようでできないことだと思う。
自分でさえ自分の心がわからないと思う。
本来ある心に自分の何かがベールを
おおってしまっていることが多いと思う。
心は行動のガソリンだと思う。

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バランス

運動不足でテニスをする。しかし、時の経過とともに、テニス後の足腰痛が酷くなっていくようだ。何故だろうか。

テニスは運動不足解消には部分的に役立っていても全てではなく、下手をするとかえって体を壊すことになっていたと確信した。

理由は「バランスの悪さ」である。
テニスは一見全身運動のように見えるかもしれないが、やり方によっては大した運動にならない。ダブルスなどはペアに上手く立ち回ってもらえば自分は動かなくてすむ。自分のショットに技術があれば、5本続くところを3本で終わらせることもできる。もちろん、これらはアマチュアレベルの話であるが。

つまりテニスで鍛えられる、言い換えれば負荷のかかる筋肉は限られているのである。よって、運動不足の体にテニスはバランス悪く影響する。

日頃の運動不足を補うための基本は「歩行」なのである。ウォーキングである。このバランスのとれた全身運動によって体の各所の筋肉がバランス良く維持されるのである。バランスの良い筋肉はバランスの良い骨格を維持し、結果として各種の痛みは起きなくなってくるのである。

以上は「体」の話しであるが、この「バランス」については人の道に通ずる。
バランスばかりを考えて行動してもいられない。が、大胆な行動ができるその反対にはそれを支える、言わばバランスをとる人なりなんなりの存在があるのである。

バランスを失った個人、バランスを失った組織。
これらにバランスを取り戻すチャンスはいくらでもある。時にはバランスを失うことも必要だとも思う。失いながらより高度で強力なバランスのための力を身につけるものと思う。

誇り

食品の偽装表示が日本全国でボロボロ発覚している。

「店員が無知だった」「知らなかった」「芝えびは小エビの総称だと思った」など、経営者や代表者からはいい加減な言い訳ばかりである。

材料と料理と料理名がバラバラで動いているわけがない。厨房も接客もフロントも知ってのことだろう。

同様なことが本日テレビ関係で発覚した。高知県・四万十川のカワセミとして流れたTV映像(
フジテレビ)が、東京都葛飾区の都立水元公園のものだったのだ。

これらのニュースに共通な背景は次のようなことだろう。
・消費者にはどうせわからないだろう。
・本当のとおりにやったら商品が提供できなくなり、それは損失になるから避けたい。

自分の名前(ブランド)に誇りがないのである。
誇りとはなんだろうか。
正義を貫くことが最も根底にあるはずだ。

誇りのない仕事は間違いなく社会を駄目にしていくだろう。

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平等

うつの原因は平等が壊れた状況によるそうだ。
平等のある社会、それは狩猟社会だそうだ。皆で協力しないと食べられない。だから穫った獲物も平等に食べる。

平等が崩れる時、人の脳のある部分が刺激され、それはストレスとなり、ストレスはうつを引き起こす。詳細は専門書などによって確かめるとして、以上の理論を私はまずは正として理解した。

どうしたらよりよい社会になるのか。
その重要なテーマは「平等」なんだと思う。シンプルなことだが、簡単なことではない。社会の中は「不平等」が増長するような方向に向かってはいないだろうか。

電気や交通が発達し様々なものが便利になるが、それとともにストレスも増している。こんな状態で良い社会になど向かっていかないと思う。

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自治力

参議院選挙が終わり、日本国の政治に関してあーだこーだとTVで評論家達の評論が始まっている。

しかし、何を聞いても空虚である。この評論家達、日本国をどこから論じているのか知らないが、自分の住む地域の自治に関して何か貢献しているのだろうか、何か考えているのだろうか、と。日本は国が国がと戦後今日まで進んできた。地域の環境に合致した地域の政治を行わなくては、日本の力強い未来は作っていけないだろう。なんでもかんでも東京等の都心に集中させ、集中管理し、効果的生産を行うのだろうが、そこには人同士が自発的に形成するコミュニティの力が薄れ、その結果として自治の力、自治力も育まれず衰退していくのである。集中管理の仕組みに当てはまらないものははじき出されるか、生きる屍となっていくのである。

どこかの党のキャッチフレーズに「強い日本を」「日本を取り戻す」とかあるが、「強い地域を」「地域を取り戻す」が並列で述べられなければ単なるスローガンで終わる。もっと草の根に帰るならば「強い個人」「個人を取り戻す」までに言及すべきである。


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形骸化

「いじめ対策に関するチェック体勢が形骸化しており、文科省で体勢を変更する方向で検討」うんぬんの記事があった。

これではいずれ形骸化は繰り返されるだろう。

文科省は形骸化の原因を体勢の仕組みのせいにしているが、この考え方は誤っていると思う。

当事者意識のない人々がつくったルールのもとで当事者が何かをしようとするところがそもそも誤りなのであり、形骸化への道である。

当事者が自分達で考え、自分達でチェックし、自分達で改善するルールとしなければならない。そこに外部からの意見等をもらうのはもちろん構わないが。





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できることをやる

最近、挨拶が蔑ろにされていると感じることが多々ある。もちろん、まずは自分が気をつけなくてはならないことだが。

「おはよう」とか「こんにちは」を発しない人。
何か手数をかけた時の「ありがとう」がでない人。

ほんのちょっとしたほんの気遣いが欠けてきているケースにしばしば遭遇することが増えてきた。

仕事の関係では特に顕著なような気がする。この不景気で、よりお互いにコミュニケーションを良くしなければならないと思うが、その逆だ。不景気だと、コミュニケーションまでも不景気になるのだろうか。これではどうしようもない。こんな時こそ、できることをしっかりやるべきだと思う。

どんな時でも誰に対してでも、きちっと挨拶できる人は大したものだと思う。そして、それは誰にとっても簡単なことのはずが、誰にとっても難しいことだと改めて思う。

「できることをやる」ということでは、「質問されたらきちっと答える」「やるといったことをやる」などがあげられる。こういうことが着実に積み重なっていけば、社会は着実に良い方向へ向っていくはずだ。


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コネと日本社会と民主主義

以下、頭から出てきたことをメモした自問文。



若者は政治に無関心であると言われる事があるが、私はそうは思わない。関心があればこそ、関心を持てない対象が日本の政治であると思う。

「政治を変える」「日本を変える」などが立候補者たちから連呼される。しかし、本当にそう考えている人がいるだろうか。ちょっとではなく、本当に、である。

こんなことをくどくど言いたくなる背景がある。それは大阪市の公務員入れ墨問題だ。入れ墨を入れている公務員を除外する話だ。私は最初、この差別に反対であった。入れ墨なんか入れていても仕事ができればいいだろう、という考え方からだ。

ところが、この件の問題は全く別のところにあるようなのである。ここから先が私の憶測なのであるが、どうやら的外れではなく、それどころか知っている人には知られている事実のようなのである。それは入れ墨はヤクザの縁故採用(コネ採用)の象徴だということなのである。公務員は必ずしも公明正大に職員を採用するということはなく、全国的に縁故採用もまかり通っていて、大阪ではヤクザがこれに介入しているという話しなのである。

こういった話はマスコミに流れない。流れないから、そもそもの本質的な問題が議論されず、単に入れ墨が公務に適不適かの表層的な議論で全国的に終わっている。

ここで話しを「縁故(コネ)」にする。「公務員は縁故なんてとんでもない」と思う方も多いかもしれない。しかし、日本の近年の歴史を振り返り、ひとつひとつ見ていくと、多くのことが「コネ」によって成されてきたことに気付いてくる。例えば企業の新卒者採用だ。コネばかりで固めても偏った社員構成になるだろうから適宜他の方法で採用することはあるだろう。

人は相手との信頼関係の中で何かを共に行なう。自分の眼力で信頼できない場合、その相手を自分の信頼している人やカテゴリーとどのくらい近接な関係にあるかどうかで判断する。こうした「信頼関係の数珠繋ぎ」によって日本の社会は成り立ってきたと改めて思う。「信頼関係の数珠繋ぎ」とは短く言うと「コネ」である。


さて、問題はここからである。このコネ社会に欧米の民主主義や自由主義が取り込まれてきたことにより、全体的にコネでバランスが取られてきたものが、歪み始めてきたと考えるのである。いくつか、ぱっと思いつく例を挙げて見る。

<プロポーザル>
 行政が外注者を選択する際の仕組み。受注希望者が提案(プロポーザル)し、それを審査で選択するわけだ。それまでは随意契約(ある理由のもとに受注者を行政判断で指定する)でなされてきたものがプロポーザルに転換しているケース。「公正」ということでは間違いが少ないだろうが、実際の事業のためになるかどうかは別問題であり、実際マイナスになることもある。何故、マイナスになるのか。審査員の質と責任意識の問題や、事業の特質や目的を関係者で十分共有できていないこと、などがあげられる。それまで行なわれてきた随意契約の意義や蓄積されてきたものを軽んじているケースもある。

<リストラ>
 バブル崩壊以降であろうか。「リストラ」というカタカナ言葉は、それまで使っていた「首切り」という言葉を和らげ、企業が経営していく際に公然と行使できる方法と化したように思う。しかし、これはどうだろうか。戦後、終身雇用の形態だったからこそ、企業のために尽くし頑張る事がされてきたのではないだろうか。企業と家族を守るため、ありとあらゆる努力と工夫をしてきたのではないだろうか。もちろん、こうした守りの姿勢は弊害も生み出すだろうが、その害を取り除かない限り未来はないことを認識し、自浄作用がなされてきたところが強く確実に成長してきたと思う。無い物ねだりをせず、自己研鑽、人材育成を行なっていたのである。
 欧米における「リストラ」は、人材が再配置される器があったからこそ成立するのではないだろうか。日本にこの器は乏しく、ただただ人材は切り捨てられるようになり、企業の幹を構築するシステムが動かなくなってしまったと思う。
 日本と欧米の大学の違いもこれらに大きく関係していると思う。日本は企業が人を育成し、その繰り返しで企業の幹をつくってきたと思う。そういうところが世界の中での強みであったと思う。別に例えるならばサッカーや野球のチームだ。お金でスターを揃えてもチームワークがなければ勝てない。スターはいなくてもチームワークで勝つ事ができるのが日本の強みだったと思うのだ。
 日本は「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」とか「鳴くまで待とうホトトギス」だったのだ。それがいつからか「鳴かぬなら殺してしまえ」まではいかなくても、それに近いところになってしまった感がある。

<グローバル化>
 使えるものは地球の裏側からでも燃料を使って取り寄せる。コストダウンに繋がるのであれば地球上のどこの地域の人でも使っていく。おかげで私たちは安くて品質の良い衣料を買え、1年中多種多様な物を食べることができる。そう、おかげさまで国内でつくった蜂蜜よりも中国でつくった蜂蜜のほうがとても安いので食べてしまう。しかも国内のものは実際「高い」と感じるほど国内は不景気なのである。地産地消とその正反対が共存している。
 なんだか違和感でいっぱいである。国内でつくらないから雇用が減る
。雇用が減るから収入が減る。減った収入で安い海外でつくられたものを買う。このからくりのこの負担はどこに行っているのだろうか。海外からものを運ぶために使用するエネルギーの排出する温暖化ガスで自然に負担をかけているのだろうか。それとも日本国内では考えられないような低賃金労働者に負担をかけているのだろうか。いや、もっと先にもっと負担のかかったものとして見えてくることがあるのかもしれない。それは日本人のものつくりに対する能力の低下である。本来負担をかけなければならない脳に負担をかけず、スカスカにするのである。つまり日本人は考えずにやせ細っていくのである。何と言えばいいだろうか。野原に時間をかけて少しずつそこに合った家を建てるということを忘れ、グローバル化だからと世界じゅうの良いと思われるものを集めて短時間で豪華なものをつくってしまうということだ。「何で、それが悪いのか。こんなに短時間で快適になったじゃないか」と反論が沢山くるだろう。うまくはいえないが、地道にやってきたところには地道にやってきたものにしかわかることのできないノウハウと力が蓄積されるように思う。短時間でカスタマイズする能力は日本に蓄積されたのだろう。しかし、その能力は短時間だけあって、他の国でも本気になれば模できるものであったのだ。これを現しているのが今日の日本であり、原発の安全神話ではないが、「技術の日本」というのも神話に成り下がってきている状況を自覚しなければならないのではないだろう。
 世界はお互いに共存しなければならないのは言うまでもない。共存のためにはお互いの長所短所を補完し合うようでなければならない。自由だからグローバルだからとやっていればどうなるだろうか。一時成功した国は繁栄し、失敗した国は没落する。その先にあるものは醜い戦いであることは間違いないだろう。
 国際社会がグローバル化のもと競争を進めたらどうなるだろうか。どこの国だって自分たちの暮らしを豊にしたいと願うだろう。競争には必ず勝者と敗者があるのである。国際社会において勝者も敗者もあってはならないはずだ。欧米諸国が「基本的人権」を掲げるならば、まず世界においてこれを確保することが最優先であり、利益を追求するのもいい加減にしなくてはならない。
 なんだかコネとは関係ない話しになってしまった。そう。グローバル化するならコネもグローバル化し、世界のバランスをとるような調整機能をもつコネを強化してほしいものだと思う。







 まあ、ともかく日本はコネの上に成り立ってきた。そのコネの実態、メリット、デメリットをしっかり認識しないまま、欧米の合理的なものを一部だけ中途半端に取り入れた。ある部分は合理的な競争原理があるのにある部分は従来のコネが維持されているという歪(いびつ)な構造になっていると思う。しかも、その歪な構造を悪用して高収入を得ている醜い人々が存在するのである。

 大切なことはコネの認識であり、コネをどのように扱っていくか、ということである。頭ごなしにコネを否定していては、コネはいつまでも水面下で行なわれる。そうした表と裏のある社会は民主主義の仮面を被っているにすぎず、真面目な人々が不利益を被る社会でしかない。コネをなくすということは従来コネで行なわれてきたことを補完する仕組みがなければならないのである。ここのところの認識がいい加減なのでコネは消えず、新たに取り入れられた仕組みもより良く改善されないのである。もちろんコネの重要な部分も認識し大切にしていかなくてはならないと思う。

 そして、報道の責任は重大だ。今回のような臭い部分を追求しない、見せない、そんな報道は日本人の民主主義の思考回路を混乱させ、回路の向上を阻害する。もっとも、昨今の日本の政治とマスコミの報道の悲惨なあり方、ネットの普及などから、「マスコミを批判する」日本人の総体的な力は少しずつ付いてきているかもしれない。であれば、思考回路は良い方向に進んでいるともいえるだろう。いずれにせよ、マスコミはあくまでマスコミであることを認識すべきだ。彼らは食べていくために彼らのコネを武器に権力(お金)にしがみつく。マスコミは第4の権力と言われているが、他の3つの権力(立法、行政、司法)と合わせて、これらの権力を制御しなければならないのは主権である国民であり、それは国民一人一人の責任と能力にかかっているのである。この一人一人の主権たる力を維持、向上するために国民自らのメディアを整えておくことが大変重要である。このメディアとは物理的な媒体だけでなくヒューマンネットワークもある。

 コネから主権者の話に行きついた。いずれにせよ、最後は何事にも自分の視点、自分の考え、自分の言葉が社会から問われるのだ。他者から聞かれた時「Aさんが言っていたので」では主権者としての説明になっていないのである。それなら「私にはわからない」でなくてはならない。それは主権者ではないのか。このように考えてきたら、「はて」と思う。何かの総会に参加できない時「委任状」を出して決定事項をAさんに任せるというものがある。これもコネの一種だろう。何故ならAさんに任せたのはAさんの価値観を信じたからだからだ。こういうケースの場合、
「あなたはどう考えた」と聞かれたら「Aさんに任せた」となるかもしれないが、それではいけない。総会は終わっていても総会後に問われれば自分なりの考えを述べなければならないだろう。ここまできて思う。そもそも「委任」とは何なのだろうか。役所の手続きについて委任するというのはわかる。やるべきことが明確だからだ。しかし、総会の議決に関して委任するとはどういうことか。総会の内容によるのではないだろうか。どちらに転んでも自分が賛同できるケースならいいのだろうが、任せたAさんが万一にも自分の考えとは違う決断をするかもしれないのである。

 民主主義をまともにやろうとしたら体がいくつあっても足りないことがわかってきた。この足りな部分を補うのがコネだと思う。だからこそ、コネについてしっかり認識するべきだしコネの存在について隠してはならないと思う。相変わらずあたり前のことを自問自答したのかもしれない。

<雑感>人と自然とストレスと社会と

現在社会で人のストレスが増している事は様々なところで目にします。ストレスにより肉体や精神に異常をきたします。このストレスの要因も様々です。複雑化する仕事、核家族による孤独、コンピュータの介在するコミュニケーションなど、あげればきりがないでしょう。

最近、私はふと思いました。孤独で寂しい時やつらい時、遠くや山を見たり、道ばたの花々をながめたり、木々の鳥のさえずりを聞いたり。そう、私はこうして癒されているのだと。

自然が大切なことはあたりまえすぎますね。しかし、人はこのあたりまえすぎることをいつも常に何度でも繰り返し思い考えなければならないのだと、当たり前の中であえて思うのです。

そう、人間だって自然の一部です。何故人間なんてできたのでしょう。不思議です。「進化の過程でできてきたんだ」と理屈はそういうことなのでしょう。それにしても他の生物に比較し圧倒的に違うことが私は次にあると思います。それは「人間には考えることで自然の未来を変える力がある」です。なんとおこがましいことでしょう。しかし、原発事故で既に実証済でしょう。また、クローン技術による生物のコピーも未来を変えることになっていると思います。

こうした人間の行動さえも「自然」であると考えれば「自然」なのでしょう。そうであれば、人間は自らを考える力で変えうることのできる生物とでもいうのでしょう。「他の生物と圧倒的に違う」というところでは間違いないと思います。まあ、だからといって他の生物に「考えることで自分を変える力」が無いかといえば、それは言い切れないとも思います。


都会。空は少しずつ狭くなり、爽やかな風は少しずつ失われます。思い通りに進んでいる時には気に止めることもないのでしょうが、そういう時が続くことはないし、皆がそういう状態であることもないでしょう。それこそ生まれた時から何かに支えられ何かを支え生きているのが人間だと何かを失って初めて心から気付くのだと思います。そして、その支え合いにあるのは「人」だけではないのだと思うのです。地球に生物が住み始めてから存在する「自然」が言葉はしゃべらなくても人を支えてきたと思うのです。

昨今の社会問題、その根幹は「人間と自然の関係」にあるのではないでしょうか。その自然とどう向き合って社会を都市をつくるのか、それは常に問われている課題であり、人間はそれをないがしろにしてはならないのだと思います。




ITと学校教育

先日、某自称公共放送で「ITと未来の学校教育」(正式名称忘れました)に関する東京のイベントを3分程度紹介していた。

電子的な黒板は、その上で棒のようなものを手のごとく操作すると様々な図を描く事ができたり、コンパスや分度器の役割を果たすこともできた。

会場の映像をスタジオで見ながらアナウンサーは「うわー、すごい」とやっていた。そういうところで終わっていた。

これを見て「うーんと思ったので、このブログを書いている。


限られた時間の中であるから、未来の教育はITで変わっていくのだね、ということをポジティブに捉えて終わっても仕方ないことなのかもしれない。しかし、この番組には学校教育の多くの問題が隠されている。ざっと列記する。


・企業の営利優先による教育現場や子どもたちへのIT機器の投入。メリットのみを強調し、デメリットについては関知していない企業。

・iT導入に関する行政と教育委員会と現場のずれ。導入されても現場で使えない、使われない。この原因には、IT機器自体に問題の他、ヒモ付きで導入されているための運用範囲の限定によるものなどがある。

・IT導入に関するデメリットに関してしっかり議論され蓄積され認識され検討され想像され注意されていない。デメリットがあるからITは使わない、ということではなく、デメリットに注意しながら運用する、ということである。もっとも、悪く言えば子どもたちがITと教育の「モルモット」になっている状態ではある。だからこそ、よりデメリットに対して細心の注意を払わなければならないはずである。

・そもそもITと人間の関係に関する研究が極めて不足しているように思う(どのくらい研究されているか調べていないで私は言っている)。


「文字が書けない」といったことはないだろうか。私は以前に比較し、楷書で書くのがかなりしんどくなってきている。知り合いは漢字を思い出すのに苦労しているという。年齢のせいかもしれない(笑)。が、そればかりもでないだろう。パソコンばかり使っていれば十分考えられる結果なのだと思う。

問題は単に文字を書けない思い出せないということではない。そのことによる二次的弊害である。アナログな文字を書かない書けないということの弊害である。実は私もこの弊害がどういうものかわからない。わからないから想像する必要がある。少なくとも、電気がないと文書をかくパフォーマンスが落ちることだけは確かだろう。コンパスの現物は使えるだろうか?そのように考えていくとサバイバルには弱い人間が育つだろう。「サバイバルなんて、そんなのめったにないよ」というところだと思う。そうだろう。しかし、そういう時に限って、いざという時の「いざ」が訪れてくるのではないだろうか。

人間同士のコミュニケーションにコンピュータが介在する割合が高くなってきているわけである。何もかも悲観的に捉えてコンピュータをシャットアウトしろというのではない。ただし、悲観的に考えることは今重要であると思う。楽観的に考えて通り過ぎてきた結果、従来になかった社会的事件や問題が起きているのだと思うからだ。

そう、今はコンピュータがちょっとした人の手間を省いてくれているにすぎないだろう。ただし、間違いなく少しずつコンピュータのエリアは拡大していく。

カーナビはとても便利だと思う。半信半疑で使い始めたら、こんなに便利なものはないと思う。どこかへ行く時の不安が解消されましたから。住所だけ聞けばたどり着ける。迷っても携帯電話で確認できる。しかし、こんなに便利になってもそれに比例して人の幸福感が増す訳でもない。そして、何も持っていなければ人に聞くしかないことになり、それは聞く事の能力の維持や向上に繋がっているのではないだろうかと思う。そういう機会をコンピュータで失っているわけだと思う。

あたりまえだが、社会において当分コンピュータとつきあっていくことになるだろう。コンピュータをうまく活用し、より人とのコミュニケーションを大切に充実させるように向うように願う。それは世界や人種などの相互理解や様々な差別を少なくしていくことにつながると思うから。

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電力経済ボケ社会からエコ経済健康社会へ

日本ほどエアコンが普及している国はないでしょう。そのへんの世界との比較資料がなかなか出てこないので、よいものがあればご紹介ください。

暑くて湿度が高く、そういう条件下でもせっせと仕事をする日本。どうもこれは世界的に見ても稀のようです。他国は暑くてもカラッとしているか、暑いときは仕事をしないかのようなのです。このへんも「日本と似たようなところある」というお話あれば伺ってみたいです。

日本人は猛暑の自然環境を克服しながら仕事にせいを出し、戦後の日本を築いてきたのでしょう。そしてそれはどうやらエアコン電力のおかげによるところが大きいようです。

私は日本のエアコン普及を肌で感じてきた一人だと思います(私はクーラーと言っていたので、クーラーと以降言います)。1960年-1979年神奈川県に住んでいました。40年前、クーラーはまだまだ高値の花だったと記憶しています。電車には結構普及していたと思いますが、バスや自家用車では皆無だったと思います。一般家庭においてはあるほうが珍しかったと思います。それから10年、つまり1970年代になるわけですが、どんどこクーラーが普及してきたわけです。以前なら「あそこのあそこは涼しい」とか言って駆け込んでいましたが、80年頃にはどこもかしこもクーラーになっていた感じです。

調べたわけではありませんが、恐らく、クーラーの普及率とマンションや高層ビル、駅周辺の多層化(地下)は一致していると思います。40年前は高層ビルなんて霞ヶ関ビルくらいしかありませんでしたから。

以下のようなことだと勝手ながら思います。
高層ビルは経済成長の証のようなものだった。どんどこ建てた。つぎからつぎと人が集まった。海もどんどこ埋めた。コンクリート、アスファルトはがんがん熱を吸収した。発散もするが高層ビルで風が流れず発散できなかった。よってクーラーをがんがん効かせる。が、クーラー自身も熱を同時に外に出す。電車も高速で増線増便で、居住はばんばん都心から離れる。この電車でも電気をがんがん使うのだ。ところで、他国は見た目は似ていても、高層ビル群の都市は実は気候は夏であっても夜は寒いくらいになるのであった。そこに気付かず繁栄繁栄と熱にうなされて出来上がったものは、世界の中で最も自然を無視し最も自ら過酷な環境をつくり最もクーラーを使って冷やすという超エネルギー消費都市だったのだった。最近でも相変わらずコンクリートは建てるけれども屋上に木をはやし、夜景や湾岸の見えるところで野菜を取れるので「エコ」というようである。なんでもかんでも電気電気で電気があればなんでもなんとかなるとやってきた。

都会に人を一極集中させた。仕事や企業のために住みたいところに住めない。家族でいっしょにいれればいいが、家族ばらばらになってどーするのか、おとうさーん。我が家が危険に遭遇したら、誰が家族を助けるというのだろーか。親戚もあっちこっちにいっちゃって、子育てに悩む女性が増え「子育て支援」策が登場する。しかし、本質的にはこういう支援が無くなる方向にあるべきであり、無くても家族が地域が支えれる家庭環境を取り戻すべきなのだと思う。同様なことには「介護」もあろう。
長い目で見ると、電力経済社会は幸せよりも不幸への道を生産していたのかもしれないと考える。

「地方分権」とか「地域の自立」がさけばれてどのくらい経過するだろうか。本当はこれらに進むことが今重要で、日本日本とやるのは違うと思います。「地方分権」「地域の自立」は議員が地元の票を取るためのものだったのでしょうか。

別に特別変わったことをしようというのではありません。各地域でのびのび家族がいっしょに過ごせ、のびのび子育てができる環境をつくること、それらのために今人口が集中してしまっているところをそうしなくなるようにしましょう、ということなのです。

日本は電力を使って人を東京に集中させ世界の中でやってきました。電力を使うだけ使って、集中によるストレスを緩和させてきたのだと思います。緩和だけならいいのですが、バーチャル(仮想)な世界で取り繕ってきたところもかなり大きいのではないでしょうか。演奏のゲームは楽しいけれど、いっしょにスタジオで演奏するほうがめちゃめちゃ楽しい。コンピュータ相手も楽しいけれど、人が相手なのはもっと楽しいのです。いやっ、だんだんコンピュータのほうがいい、という人が増えてきているのかもしれません。そこのところはどうなんでしょうか。

原発事故は私たちに重要なことを示してくれているのだと改めて思います。
今までのような比例関係で電力に依存しながら一局集中を続けながら歪みを取り繕う施策(カバー)をつぎからつぎへと繰り出してやっていくのか。それとも電力に頼らない(使わない、ということではないですよ)でもなんでもないようにやっていける、子どもがすくすく育ち大人がはりきって仕事をし老人が好きなように余生を過ごせるような地域社会の集合としてやっていくのか。

「再稼働なしは集団自殺」とは、あまりに貧弱であまりに将来への想像をかいた発言だと思い、今回の日記となりました。ここで仙谷氏の言う集団とは、まず原発利権ありき、の人々のことを的確に指しているのだと思います。本人に意識はないと思いますが。

最後に。
同じ人参でも専用の皮むき機を使うより、包丁を使う方が脳が活性し、ぼけ防止に役立つそうです。電力の使い方もこれと同じだと思うわけです。人間は「食べる」「コミュニケーションする」「何かする」でとても幸せだと思うのです。これらに電力をどう活かしていくのか。使わないことも使うことも活かすうちに入ると思います。問題は「電力ありき、電力依存」だと思うのです。これではきっとボケるのだと思います。



以上は新聞「「再稼働なしは集団自殺」仙谷大臣の発言記事を読んで。

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立て直しをあせるな

原発事故を機会に日本の民主主義や自治やまちづくりの問題点があらわになってきた。この問題点は戦後の時間の積み重ねでできあがってしまったものだ。途中でも何度か赤シグナルが出ていたのだろう。しかし、それを対処療法的に覆ってしまったのだ。こうしてつくられたものは欠陥住宅のようにやがてどうしようもないところまでくる。

今「日本はどーする」とそこいらじゅうで言われているし耳にする。しかし、まだまだ対処療法的なものが進み、根本的なところをコンセプトを見直そうとするところが少ないように思う。弱いように思う。

欠陥住宅の立て直しである。ある部分はゼロから考え直さなければ、また欠陥住宅をつくることになってしまう。

もしかすると日本人は極端に「根本的な見直し」「コンセプトづくり」に弱いのかもしれない。全てを白紙に戻して考え直すことが苦手なのかもしれない。何かの前提を用意したうえで、議論をしないと議論できないのかもしれない。しかし、それでは駄目だと思う。

日本再建については世代間の考え方の違いも相当あるように思う。このへん、相互理解するところからもやらなければならないだろう。


ただひとつ大切にしなければならないことがある。
それは出された質問や指摘された問題に対して目を背けないこと、誤摩化さないこと、である。ある問題Aに対して「そりゃあ難しい」と思ったら、それをできる人を探すことである。考え抜くことができる人を探すことである。そういうアクションなしに、「難しい」「そういうものだ」で止まっていては対処療法で終わるだろう。こんなことを言っていれば「口で言うのは簡単だ」「現実だ」「大人でない」と出てくるのが目に見えてくる。そうして口を閉ざす人が増えていくのだろう。

専門家でも誰でも自分が「難しい」ということで他者の思考を止めるようであってはならない。むしろその逆で、自分も思考を進めるし、より周囲の思考を進めることをしなくてはならないと思う。


「これから重要になってくる地域力とは、思考を続けることである」
私はそう思う。





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原発が世界からなくなる日

人類は過ちを繰り返す。一人一人が正しく考えても、権力が誤った道に国を進めてしまう。国にとって権力はできうる限り小さく控えめにあるべきだろう。

世界は大戦を2回行なっている。3回目はさすがに大国自らの存亡も危うくなったので回避されたが、それでも小戦(大戦に比較しての表現)を繰り返している。

原発はどうだろうか。世界で運用が始まった時、そこには明るい未来を描いている人が多かったようだ。しかし時間の経過とともに問題が次々明らかになり山積みされていった。それらは市民に直接被害を及ぼす事故が起きてから漸く市民に認知されるようになる。

何本かの原発関連ドキュメンタリー番組を見てこの記事を書き出した。

原発を多く使用する国である仏の状況は番組を見る限り深刻だ。電力会社が国営から民営となり、原発の安全管理に「費用対効果」がより色濃くなってきているのである。メンテナンスはどんどん下請けに任され、危険な作業ほど下請けの下請けなどに回る。リスクの高い代わりに賃金が高いと思えば、全く逆である。人材教育にかけるコストは削減され、人材は育たない。現場からは「今のメンテナンスは危険だ」と声が出ているとのこと。

人に幸福をもたらし経済発展の目玉とされた原発。運用してわかってきた危険を回避するために安全策を講じなければならないが、ビジネスとして成立させるために切り捨てられているものがあり、それは増え続けているようなのである。

大戦のように、多くの人が亡くならないと相変わらず人類は目を覚ます事ができないのだろうか。いや、これには語弊があるだろう。オーストリアやイタリアなど国民投票で原発廃止または廃止に向っているところもある。目を覚ませないのは人類ではなく、民主主義が正常に機能していない国ではないだろうか。そういうことからすると、米国や仏はどなっているのだろうか。個人の権利と自由を何よりも重んじていると見られている国だったが、ある種の利益のために個人の意見を封じ込めるこもと同時に強固に機能しているのだろうか。

チェルノブイリのような事故は10万年に1度想定されていたようである。しかし、実際にはこの30年の間にレベル7の事故が2回起きているわけである。これは学者の考える想定が如何に不確実性の高いものであるかの証明である。原発がここまで示してくれているのにまだ目が覚めない国々がある。きっといつか取り返しのつかない大事故が起きるだろう。それでしか目が覚めないのだろう。

ところで廃棄物の処分はどうなるのだろうか。フィンランドは決まっているようだ。ある強固な地盤の地下に何十年もかけて埋めていくとのことでそれは開始されている。そこに10万年は保管する必要があるとのことだ。この10万年の間に氷河期が来て人類は滅びるかもしれないとのこと。そこまで想定し、氷河期が過ぎ去った後、人類が復活し、この危険な地下に侵入しないようメッセージを残した部屋もつくっているそうだ。

しかし、どうだろうか。「想定」といっているが、それはあくまで現時点の「想定」である。そのことをわかりながら不安そうな顔をして話しをしている学者もいれば自信満々な学者もいる。前者が本当のところだろう。後者の思い上がりも甚だしい学者は多い。何をどのように論じても自由である、が人間と自然の安全まで論じてほしくはない。論ずるなら「危険」である。一般に提示すべきは「危険」である。一般人には到底知り得ない危険を予測し提示することが学者の使命である。この提示された危険を人類が平等に知り、それをどう扱うかを判断するのが政治であり民主主義だろう。「国民が心配する。騒ぐ」と隠蔽しているうちは「民主主義」ではないのだ。個々にその行動の責任が持たされているのが真の民主主義だと私は考える。政府の重要な役割は極論をいえば「情報提供」ひとつしかないと思う。であるから日頃から政府も市民もそういうスタンスで事に当たらなければならない。惨事の時だけうまく動くなどむしのよい話しなのだ。

今、原発を進めようとしいる人は矛盾の中に生きていると思う。話すことに何一つとして確実な根拠がないのであるから。原発の日本におけるストレステストを保安院が評価する件の委員会のライブ中継を聞いた。基準は福島第一に訪れた震度と津波のようだ。つまり、想定といっても過去の事例から想定するにすぎず、想定したからといって何の安全の保証もないのである。そりゃあそうだろう。地震国日本で地震の予知もできないのだから、原発へのストレステストなど実効的でないのはあたりまえなのだ。そのストレステストだって欧米から持ってきたものだろう。そんな借り物で国の運命を左右するテストをやり続けようとする人達に責任感など微塵も無い。いや、本人は自分の任期中、目の前にある「テスト」を実行することが「責任」だと疑わないのだろう。こういう人達に安全の話しなどしてもわかろうとする回路が無いのだと思う。

安全に関する日本の最大の誤解は原発を他の建造物と同様に考えるところにある。他の建造物は最悪壊れてもしかたないというポイントがある。だからリスクを想定しそれに向って検討を押し進めることができる。しかし、原発に限っては最悪でも壊れてはいけないのである。このことを考えれば答えはひとつしかないだろう。その答えへの道筋はできているのだ。ところがその道があること知っていても、まだそこに出ようとせず他の道を探ろうとする人々がいる。自分達がやってきたことを否定したくないのだろうか。そう思う。それは日本が自ら戦争に終止符を打てなかった時と類似している。

ところで原発を進めようとする人の進める大きな理由はひとつ。「代替えエネルギーがない」である。しかしこの理由には条件があり、その条件には言及されていない。条件とは現在の生活水準を維持する、という条件である。まず、現在の生活水準を維持したいかどうかを問う話がでていない。または、これを維持するとしてそのために必要なことについてエネルギー以外に論じられていない。

世界から原発がなくなる(電気を出す原発がなくなる)シナリオは以下のとおりだ。
(1)どこかで想定外の条件により想定外の大事故(レベル8以上)が起こり過去に例のない想定外の事態となる。
(2)この事態から原発を持つことそのものが国を滅ぼすことになる認識を世界がもつ。
(3)原発廃炉ビジネスが振興、同時に新エネルギービジネスも振興する。
(4)廃棄物の処分と保存をどのようにするかが難問となって重くのしかかってくる。原発をより多く稼働してきた地域、国ほどそれは重い。

前述のフィンランドの話を繰り返す。廃棄物を10万年間安全に保管し続けなければならないのである。関係者はその10万年を想定しているのである。とりあえず想定しているが、誰も想定どおりにいくとは思っていないのである。あたりまえだろう。10万年経つまでに氷河期で人類は滅びることもあるのだそうだ。笑ってしまう。原発は未来に残すロシアンルーレット付き爆弾または巨大地雷なのだ。

上記(1)になる前に気がついてほしい。原発を続ければ続けるだけ、その廃棄物が増え、老朽化し、運用人材が不足することでリスクとコストが増えるだけなのだ、ということを。現在の利益を追い求めるあまり、新エネルギーへの転換が遅れ、負の遺産を抱えて生きる国になる。これは物語に例える事ができるだろう。舌切り雀だろうか、はたまた蟻とキリギリスだろうか。3匹の子豚かもしれない。

これからは各国の脱原発計画の競争である。どのくらいの期間で脱することができるのか、である。米も仏も本当はそう思っているのかもしれないがあえて公言しないのかもしれない。公言すれば現時点で世界のトップでないことは明らかであるからである。それだから余計に内密に水面下である日に向っているかもしれない。ある日とは原発をなくす日である。このへんは私の勝手な想像である。ただ、米仏が自立している国だと思うから、手放しで「原発推進」などとは原発推進者自身も発信していないのだと思う。自分がイニシアチブをとれる機会をたんたんと狙っているのではないだろうか。それこそ世界に原発を売るだけ売り、その後に廃炉ビジネスでも儲けようということである。このへんでも最も問題なのは「日本」であろう。米仏のもくろみなど知らずにただただ金魚の糞のように彼らに付いて行けばどうなるのか。

福島第一原発事故を生かせなくてどーする日本。過去の間違いを潔く認め、1からやり直すところに国民の力は結集する。今、日本はそういう時期なのである。

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集中力について

集中すれば良いことができる。もっともな話だろう。
しかし、このことをもっともっと真面目に真剣に捉える必要があるだろう。

テニスを例にしよう。集中することにより、それまで培ってきた技術の個々が統合され結ばれ、ひとつの大きな力になる。よって如何に集中するか、集中力を高めることが勝利のために重要な要素になってくる。

繰り返しになるが。集中によって個々の力・技術が結集されるのである。

テニスを例にとったが、これを仕事、勉強、遊びなど日頃の私たちの生活に置き換えて考えてみる。私たちが個々に能力を発揮し、それが結集してより良い社会がつくられていく。そのためには個々が集中することが重要なのだと改めて思うのである。

問題なのは、ここで「集中しろ」なんて頭ごなしに言ったり行動したりしてはならない、ということである。人は目的や好きなことに対して集中できるものだろう。ここのところが肝心なのである。

「こうだ」という方法はないと思う。ただ、誰にも集中できる対象があるはずであり、それを自ら見つけたり、他者が支援したりすることがとても大切なことだと思う。


学校教育はどうだろうか?
会社の中はどうだろうか?
地域のまちづくりはどうだろうか?
政治はどうだろうか?

集中するために何が欠けているだろうか。いくつもあるだろうが、その中で大義も重要である。政治に限っていえば、口先だけの「日本を良くしよう」「頑張ろう」、ご破算になる政権公約など、これでは誰も集中できないのである。

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厚化粧をとること

「北海道は素晴らしいので住んでください」という旨の記事を最近見た。
そりゃあ誰だって良い所をPRしたいし、実際にそういうケースが大半を占めるだろう。

しかし、本当のところは違うだろう。
例えば結婚を考えてみる。一生のことと思うなら、如何に相手の素を見ることができるかが大切なはずだ。逆には如何に相手に素を見せるか、である。その素の中には一般的に言える様々な問題はあるだろう。そうした問題を受け入れることができるかどうかが、結婚のポイントだろう。

こんな話しをすること自体あたりまえすぎて恥ずかしい。ただ、こういうことを抜きにして「誘致だ」「永住だ」「なんだ」といのは失敗への道だと思うのである。

「北海道は厳しい。この厳しさと向かい合う気持ちがないのなら、来られる事はお勧めしない」
というのも必要だと思う。

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国は何のためにある

国は何のためにあるのか?

私は歳をとるにつれこの疑問にぶちあたることが多くなった。

国は個人の尊厳のためにある。私はそう思う。社会に生きる以上、個々は他人のことも考えて行動しなければならない。しかし、個々の尊厳は最優先されなければならないと思う。国や組織の都合はその次なのだと思う。

個々が健康的に暮らすために国がある、ということだ。

そして、自治体も個人のためにある。その自治体のために政府がある。

ところが実際はどうだろうか。国のために個々が犠牲になっていないか?国のために地域が犠牲になっていないか?それも度を過ぎた犠牲である。

原発事故に関しては底なしに費用がかかり、マスコミからは「国が負担する」と報道される。これは大いに曖昧な報道である。「国」が負担するとはなんなのだ?「国」なんていうものが負担するのではなく国民が負担するのである。こういうところを正確に報道すべきだ。「国」が得体の知れない権威になってくる。私たちは国に何かしてもらっている気になっていく、なっている。しかし、実態は違うのである。何かをしてくれる存在など本当は無いのだと思う。あくまで自分達が自分以外に委託しているのであり、何もかも問題の元を辿ると自分にたどり着くのではないだろうか。ぐるぐるまわりである。

このぐるぐるまわりをしっかり認識することが日本にとって大切だ。たらい回しのぐるぐるではない。人と人が協力しあっている社会であることの"ぐるぐる回り"である。

私は政府を国とは言わない。北海道庁を北海道とは言わない。江別市役所を江別市とは言わない。何故ならば私は個人であるとともに、国であり北海道であり江別市であるからだ。

やらせと日本社会

原発に関連した「やらせ」が問題になっている。

ここで考えなければならないことは私たち個々の「やらせ」ではないだろうか。明確な「やらせ」ではなく、個々に存在する弱い「やらせ感」とでも言おうか。そういうもので物事を進めてしまっている経験はないだろうか。

私自身記憶に蘇るだけでもいくつか「やらせ」を経験している。その経験の後には何の満足感もない。

「やらせ」に関する種類は様々だろう。あるイベントに知り合い関係を大勢呼んで盛り上がった気になるのもやらせだと思う。それが他者へ直接的に害を与えなくても、確実にイベントを主催した者には害となって蓄積されるであろう。

お役所がある企画案をたてた。その企画の実施を確実にするための根拠がほしいと考える。それでアンケート調査をする。アンケート調査はシンクタンクに依頼する。シンクタンクはアンケートの結果が企画実施に向うよう巧妙に質問項目をつくる。こういうケースが役人の頭脳を退化させ、税金を浪費するのである。

私たちが遭遇する「議論の場」で少数多数に関係なく、誰かの意見を真剣に聞き、その奥を知ろうとし、そこから議論を展開しようとするケースはあるだろうか?拍手の中に埋もれた意見を真摯に受け止める議論の場はあるだろうか。人間は弱い。集団になると持っている意見を言えなくなる。または心理的にそういう構造になっているのだろう。

こんな話がある。試験場に試験官1人と受験生1人がいて試験が始まる。試験最中に試験官が倒れる。すると受験生は試験官を助けようとする。しかし受験生が複数になると状況が変わってくる。なんと、倒れた試験官を助けようとする人がしばらく出てこないのである。これはあるTV番組での実験なのであり、あくまで参考である。

この試験官の話しを私は議論の場に思う。
話声が大きかったり、一般的に受け入れられそうな意見をいう人であったり、意見を言うのが得意であったり、実際に話がうまかったり、とそういう人の話が議論の場の空気をおおう。どれだけ貴重な意見を持っていても勇気がなければ話しだせないし、仮に話しをしてもそういう話しに耳を傾ける姿勢がその場になければその話は消えてしまいがちだ。
私はこういう場に「やらせ」の温床があるのだと思う。

大人になればなるほど未知を恐れ自分の知識と経験で固めたくなるのではないだろうか。そういう人々が集まる中に本当の議論は起きにくいだろう。
大切なことは「未知への挑戦」だ。これを楽しみ求める土台があってこそ、そこに議論が巻き起こり、「やらせ」を吹き飛ばすのである。

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国民主権

日本は国民主権です。
憲法の基本原理は
・国民主権
・基本的人権
・平和主義
です。
日本社会の中において
日本人はこの基本原理を基に行動し、これをを維持するために行動します。
もちろんこの原理は絶対的なものではありません。国民の努力と総意により
改善されていくものであります。

今、何故私はこのようなことを言うのかと言いますと。
昨今の公務員(議員、首長、首相)の行動に「国民主権」を忘れているのではないかと
思われることが多々あるからです。

首長や首相に権限があるといっても、それは国民により信託されたものであり、首長や首相に個人的視座は許されないのであります。常に国民の視座に立たなければならないのであります。そうはいっても国民にも様々あります。Aという主張に対し全く正反対のBという主張もあります。国民の視座に立つということは、とりもなおさず憲法に準じる行動をとることに他ならないと、私は思います。

昨今の原発に関する首長、首相などの公務員のとっている行動はどうでしょうか?首長には国に責任を転嫁するような行動しか見受けられません。「原発の安全性については国が補償する」という言葉を国から引き出し、それならば首長として原発の再稼働などを容認する、などといった事です。結局、こういう首長には万一の原発事故に対し何か責任をとろうという発想はないでしょう。第一、容認是非の際、住民投票をするとか、独自(首長独自)に世論の調査をするとか、そういう行動が首長に見られたでしょうか。

こんなことで
地方自治、地域の自立、地方分権、など進むとは到底考えられません。

地方自治とは
地域として
憲法の基本原理である
・国民主権
・基本的人権
・平和主義

独自の方法で推進する
ことにあると私は思います。

本件に関しては、引き続き記事を書いていこうと思います。


脱原発の市民は明るい

ニュージーランドでしたか。TVのインタビューに市民が答えていた。
「市民の税金負担が高いとしても原発を使っていないのだからOK」という旨の発言だった。

TVを見ている私の気持ちがそうさせるのか。ともかく答える市民の表情は明るい。
イタリアの国民投票で脱原発が決まった時の市民の表情もそうだった。

人の顔の表情って不思議と誤摩化せないと思う。
例え電波とブラウン管(今はディスプレーというのだろう)を通しても明るさを感じる。そして私は羨ましく思う。

綺麗毎ばかり言ってはいられない、と人にたしなめられる。そうだろう、実際の社会は知らなければ良かったと思うような構造が仕組まれている。子どもの頃はしらなかった。ただ大人になるにつれてわかってきた。だから「わかれ」といわれる。しかし、これではいつになっても良い社会になっていかないし、少なくとも良くなっていくための土壌が育たない。おかしなものはおかしく、それを正していくことが大切だ。しかし、おかしなものをなんでもないことのように運用している社会がある。それを正しいとさえ言ってしまうようになってしまっている。きっとどこかでわかっているはずである。心のどこかで。だから、そうした人々に真の明るい表情は見られないと思う。

ぼろは着てても心は錦、な社会は素敵だと思う。しかし、こんなことを言えば、「ぼろを着てては心も荒む」なんて言われる。さあ、どうだろうか。このへんに私たちが勝手に自分達を追い込んでしまったつまらない社会を感じるのである。

原発は何万年も生物に悪い影響を与える量の放射性廃棄物を出す。土中に埋めて分解したり、再利用できるゴミとはわけが違う。そういう処理できない負の遺産を後世に拡大しながら残しながらどうして笑顔でいられようか。例え笑ってもけして心から笑えない。錦は着てても心はボロとは言わないまでも心は晴れず、である。

ともかくなるべく早く原発から脱するべきであり、そのシナリオをいかに作り、そして実現していくか。そのシナリオにより動く市民は必ずや明るい笑顔を取り戻すだろう。



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