2017-08

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隣の芝生

個人でも組織でも「隣の芝生」は良く見えがちである。

「お隣の車は立派だ。我が家もあういうのを持てたらいい」
とか、そういうことだ。

組織ということでは「国」レベルでもある。日本で良く言われるのは「米国はこうでここがいい」である。

別にこれらを否定はしない。人間、多かれ少なかれ、何かを模倣し、何かと自分を比較しながら成長するからだ。
ただ、これらにかける思いの時間(隣の芝生を見る時間)はほどほどにしておくのがいい。

大切なことは自分自身がどれだけ成長したのか、だと思うからだ。

「どれだけ」。これは何も物質的なことではない。何を持ったとか、そういうことでもない。
自分の中にある「どんな山」をどのように乗り越えたか、そこが問題だ。

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私と国道36号線

1半くらい前にあるところでお話した文です。
私と北海道の大切な関わりということで掲載します。


*******

 中学、高校と進むうち授業に追いつかなくなり、高校卒業の時は学年450人中お尻から3番以内だった。最後に受け取った通信簿にAからEランクまでの人数分布を示す紙が張られていたが、そのEランクの欄に表示された数値3のうちの一人が自分だとわかるのに時間はかからなかった。私の学習方法は参考書を読みながら一つずつ疑問を確かめていくものであり、教室の先生の話は頭にほとんど入っていかなかった。だんだん疑問を解決するのに時間がかかるようになっていった。マラソンでいえば途中の寄り道が多すぎてゴールした時は誰もいなかったような状態だったと思う。

 こんな私であったが北海道の大学に行きたかった。希望は地球物理学だったが、それよりもまず北海道に行きたかった。現役では当然のように受からなかった。私の高校で一浪は珍しいことではなく友人達と東京の予備校に通った。しかし、基本的な学力のない私には予備校にもついて行けず1年かけて受験した大学は全て落ちた。インベーダーゲーム全盛の年だった。

 さらに1年予備校に通ってもうまくいかない気がした。そこで、当時札幌で独身貴族だった叔父のところに居候、自宅浪人することにした。自分の環境をとことん変え、勉強に集中すること以外に道を切り開くことはできないと考えたのだ。自宅の和室で父にお願いした。父はただうなずいてくれた。ちなみに私は三人兄弟の長男である。

 札幌での二浪目は何もかもが日々新鮮だった。勉強だけでは大変だろうと、先に北大に入学していた友人が気遣ってたまに遊びに誘ってくれた。高校の友達からは何通も励ましの手紙をもらった。社会人ボート部の叔父には幾度か茨戸に連れていってもらった。多くの方に励ましてもらいながら、私は北大の図書館で自習した。秋の暗い帰り道、当時は札幌に沢山あった様々な喫茶店で持参した「宮本武蔵」を読むのが楽しみであった。

 3月4日二次試験の後、私はもしかすると駄目かもしれないと思った。発表までの二週間は覚悟を決める時間だった。叔父は駄目だったらもう1回チャレンジするよう言ってくれたが、私は先行して合格していた京都の大学に行く事にほぼ決めていた。もう浪人はしたくないと心の底から思っていたからである。父と母に手紙を出した。もし合格できずに帰る時は許してほしいというようなことを書いたと記憶している。

 発表当日の朝、既に出勤していた叔父に書き置きを残し、実家に帰る身支度をして合否掲示板に向かった。自分の番号があった。誰にどう電話したのか覚えていないが、ともかく実家に帰り母に会いたいと思った。心と体がそのようになっていた。

 千歳空港まではバスに乗った。バスは国道36号線を走る。札幌の街中を抜け、車窓には家もまばらになった野原が映ってきた。その時、自分のほおにつーっと何かが伝うのを感じた。窓の風景が目に入ってきたら勝手に目から流れ出てきた。それから国道36号線は帰省の時に何度か往復した。いつも何故か札幌の街中に入る時、ちょうど豊平川が見えてくるぐらいの時、心がすーっと落ち着いていくのを感じた。北海道の空気が自分に合っていると、その度に思った。

 今年の3月、父が8時間の心臓手術を受けた。母は「もう一度だけお父さんに家に帰ってきてほしい」と言っていた。手術翌日、麻酔から醒めた父の手を物心がついてから初めて握り「大丈夫だぞ」と励ました。一週間実家で母をサポートした。母に料理を作ったのも初めてだった。スーパーの買い物、昔はよちよち付いて歩いただろうが、今は、母の後ろ姿を「意外にしっかり歩いている」と感心して見ながら、私は買い物カゴを引いている。50年という歳月の流れを思わず感じてしまった。父も母も仲良く何とかやっている。叔父とは年に1、2回、叔母と妻と4人で一緒に食事をする。

五輪エンブレム

五輪エンブレムを作ってみました。

olympic-emblem


TOKYOと2020の間にある五輪の重なったマークは、五大陸(世界)が平等に対等に心を合わせるという意味です。
その先に上の「笑顔」があります。「笑顔」は世界のお互いの理解と協力、平和があって初めてできます。
周囲の円の右が二重で左が1重なのは。世界には違う価値観や対立する意見があります。それはそれで大切なことであり、主張するべきです。が、しかし、そこからお互いを尊重して一つになることも目指していくのです。
TOKYO2020は心から皆がよかったと笑顔を交わせ合える誠心誠意のある大会であることを願うばかりです。

global.jpg

五輪エンブレム問題

 本件で大きな問題の一つはオリンピック組織委員会の対応である。

 ベルギー劇場のロゴマーク作者から盗用の疑いが指摘され、一番最初に公表したのは「法的に問題ない。登録されている著作権に引っかからないかどうか確認済みである」とのことだった。それ以上のことを調べようとか公表しようとかそういう姿勢が一切ない。

 この最初の公表以降もネット上では作成者の別件での盗用が指摘され、数週間後には明らかな盗用(サントリートートバックの件)が発覚し、作成者は非を認めた。この時点で作成者への信頼は大きく損なわれた。同時にベルギー劇場側も正式にIOCを提訴した。オリンピック組織委員会は「何故提訴した」とベルギー劇場側を非難、所謂逆切れ状態だ。作成者の信頼性が日々崩れている時にである。

 このようなことが起きた場合、一般的にその潔白を示すならば、次の件をはっきり説明すべきである。
・作成者本人からの作成に関わる工程(方法や方針などもろもろ)の説明
・作成者を選択した審査員からの審査過程(基準、審査工程)の説明
・審査員を選択した組織(オリンピック組織委員会)からの審査員選定の過程に関する説明

しかし、以上のことがほとんどなされていない。
1点目については若干の説明があったが、詳細に説明されているとは言いがたい。2.3点目については皆無である。そのためか、ネット上にはこれらを推測する情報が入り乱れる。単なる憶測ではなく、それなりに業界に近い人や内情を知る人が情報のソースになっていると思われる。偽りを出せば名誉毀損、損害賠償を請求されることにもなるわけで、裏をとるための参考情報にはなるだろう。ものによっては科学的に盗用の根拠を証明しているケースもある。

 新国立競技場問題で後手後手だったオリンピック組織委員会であるが、その過ちを反省しているとは思えない。もはや後手後手は体質的でありどうしようもないレベルなのかもしれない。これを投稿する時点で、エンブレムの採否に関わる責任者が見えてこないのだ。五輪エンブレム作成者が世間に疑われメディアで日々扱われているのは仕方がないことだと思うが、オリンピック組織委員会は「法的に問題ない」だけでそのコメントを終わっているところは極めて無責任であると思う。すでに責任の逃れの回路がそこいらじゅうに働いていると想像する。

 あとは「デザイン」に関する考え方である。この疑惑の後、日本のクリエーターと言われる人達から作成者を擁護する声も出てきた。「シンプルなデザインだし似ることもある」と。
 そうだろうか。似るというのはもちろんわかる。しかし、それは模倣の割合が高いか、個性がないゆえの結果のことではないか。例えば自動車のロゴはどうだ。ホンダなんかHだけだ。しかし個性的でインパクトがあり、他のHとは違う。

 本物のクリエートとは魂の注入だと思う。世界の人口数十億人の中で同じ顔の人はいない。似ているケースは沢山あるが、それでもどこかに「個性」があり、それを見いだすのが人なのだ。

 2020東京五輪のエンブレムにそういう個性があるのか。審査員はそのへんをどのように見いだしたのか。本当に見いだしたのか。

 2020東京五輪の問題はなにか。「密室性」「欺瞞」「見栄」である。こうしたことを改善せずに「国民の理解」「国民の賛同」「訪れる方のおもてなし」を国民に求めるのはあまりに浅はかという他ない。

 開催は決まり撤回の可能性はまずない。反対してきた人も何割かは協力に向かうのだ。ネット時代、オープンに明るく責任を明確に誇りをもってオリンピック準備を進めていこう。準備段階の失敗、真面目にやっての失敗なら仕方ない。取り返せばいい。失敗しないように不正、腐心を働けば、最後に必ずしっぺがえしが来る。


新国立競技場問題とまちづくり(自治)プロセスの問題

まちづくりに関する課題やテーマがあると、中央政府は「有識者会議」を開く。地方公共団体もこの方法を周到しているところが多いだろう。

責任を持たず、まちづくりに関してどこまで深い見識があるのかよくわからない「有識者」。

市民間の議論が進み、その結果で必要により「有識者」が登場するプロセスにない。

市民のニーズ、市民のノウハウがまちづくりに反映されることが優先されたプロセスになっていると思えない。

新国立競技場はオリンピックのためにつくるのか? これは違うだろうし、違わなければならない。数千億円は今から少なくとも半世紀、その地域とその地域を訪れる人々のためにある。ところが、そのデザインやその審査を誰がやっている? 二週間のオリンピックのことしか頭にないのではないか?

話が変わるが。
集団的自衛権に関わる法制化に関して「国民の理解がたりない」と中央の政治家や首相は言っている。しかし、これは違う。足りないのは「国民の議論」なのである。

「国民の議論」。これがもし弱体化の方向に進むならば、戦争が繰り返されることは否定できない。


個人の権利と義務

ある判決から考えることだ。
そのある判決は図のとおりだ。これは朝日新聞社のホームページの画面である。同様な記事は読売新聞の紙ベースでも掲載されていた。

この判決、それを伝える記事、どちらも私には納得いかない。

結論から言う。
このような道路に簡単にボールが出てしまう壁しか設置できていなかった小学校の責任であると考える。その壁の設定や管理が教育委員会にあるならば、教育委員会の責任であると考える。子どもやその親に責任が問われる意味が私にはよくわからない。

子どもではないが、徘徊した老人が電車に跳ねられ死亡した。その事故による損害賠償を電車会社から徘徊老人の子どもに請求したそうだ。同様なことが全国各地であるようだ。

本件で考える事は「個人の権利と義務」である。
これが日本でどのように取り扱われているかとりまとめることが容易ではないことはわかっている。解釈も個々にばらばらであろう。だから、本件のような裁判結果が出るものと思う。

個人が他人(親族であるかどうかの区別はない)に対してどういう権利や義務があり、また逆もどうであるか。これは個人の権利を尊重するのであれば必要最小限に止めなければならない。他人を監視する義務があるということは、そのぶん自分の時間を束縛されるということである。子どもが成人するまで親に一定の子どもの監督義務が生ずるのは理解できるが、成人後の監督義務は不要だと考える。成人後は1人の独立した成人であり、その社会的責任は誰かを通して存在するものではなく、本人にしかとりえないものと考える。


日本ではこの個人の権利と義務が曖昧だと思う。
そのことが弱者の存在を蔑ろにしていることにも繋がっていると思う。弱者になにかあればその家族に責任を負わせればすむという節がある。または、本来弱者のために社会的なあらゆる場面のバリアを取り去っていくことを進めて行かなければならないにも関わらず、そこを怠慢にし、家族に負担を強いているのである。

徘徊する老人は社会が見守っていかなければばらないのである。それが社会(国家)と個人との補完関係であると考える。

本件は本来社会が行政がやらなければならないことを、子どもとその親に転嫁したものだと考える。こうした判決を下す裁判官の思考能力の無さにもあきれる。前例を周到していればそれでいいだろうという精神が裁判官に働いているのではないだろうか。

小学校の校庭でのびのび運動ができない。そんな国に日本は成り下がりつつあるのである。

保育園児が近隣住人にはうるさく、保育園の開園ができないところがあるという。この件で住人がいけない、などの意見が見受けられる。これも、個人の権利と義務を蔑ろにしている事例だと思う。子どもの声はある年齢になるととてつもない騒音になるという研究結果もあるという。そのような騒音を我慢して住めというのはおかしい。逆に子どもたちを高い塀の中に閉じ込めてしまおうという対策もおかしい。これらは都市計画の問題、日本の人口分散政策の問題であるはずなのに、そこに言及しない。

まちは経済のためにつくるのではない。人のために人と人の交流のためにつくるものであると思う。そこには人の個人の権利と義務について常に考えるものがなければならないと思う。





<図>
asahi.jpg

市民派?

選挙が近くなると候補者に関する記事が新聞等に出る。
例えばある都市の市長選挙。
「○○候補は市民派だ」と記事にうたわれている。無所属であり、その候補を推薦する政党として自称市民派の政党がある。

しかし、よくよく考えてみると何かおかしい。市民自分達の首長を選択するのに市民派もへったくれもないだろう。市民派とはどういう派のことなのか。

このように聞けばいろいろと説明してくれる人はいるだろうし、そういう人の姿が具体的に思い浮かぶ。しかし、思い浮かんだそういう人達に本当に市民感覚があるのかどうかは、はなはだ疑問である。

「市民」「市民感覚」とは個人の権利を重んじ、そのための「公共」を自らが自覚し整理することに努める者のことだと私は思う。「公共」の整理は市民同士の協力のもとになりたっている。このような協力の環境を整備することが「市民派」には最も重要な責務であると私は考える。

「市民派です」と自称しながらいざ権力を握ると「俺たちが正しい」とばかりに何の反省もせずに進む政党や議員。「市民」「市民派」という言葉に惑わされないよう選挙では注意が必要なのである。

今、日本に必要なこと

 民がまちづくり(地域でも国でもどちらでもいい)に主体的に参画する気持ちになれること。そういう環境づくりが日本にとって一番必要だと思う。

 何故今更こんなことを言うのか。中央政府やその周辺にいる人達はこのへんのことをわかっていないように感じるからである。自分たちが国民のために何かお膳立てをすれば国民が元気になるというような勘違い、何かお膳立てをしなければいけないという勘違いが多いと思う。

 中央政府がやること。それは民がまちづくりのお膳立てをする方向に持っていくべきなのである。もちろんそういう気持ちが自発的に民に起こるようにすることが前提であることは言うまでもない。

 町内会で役員達が「役員の担い手がいない」と嘆く。しかし、嘆いている割には担い手になる可能性のある芽を見ていない。町内会のあり方を反省したり改善したりする発想に乏しく、担い手の無さを「若者の無関心」と決め込んでいる節がある。

 この町内会の例は地域づくり国づくりの場にもあてはまると思う。「日本を元気に」という言葉がこの数年メディアに頻繁に出てくる。この「元気」とは自然環境に例えれば雪解けで地面から木の枝から出てくる「芽」の様子ではないだろうか。

 どうしたら「芽」が沢山出てくるのか。





 

日本の大手マスコミの戦争報道

 ここではテロに対する報復爆撃も戦争と見なします。

 IS国(自称:イスラム国)で日本のフリージャーナリスト後藤氏がIS国テロリストによって先日殺害された。後藤氏がIS国を取材する大きな動機は罪のない子どもたちが戦争に巻き込まれていることを世界や日本に訴えたいということである。

 後藤氏が亡くなった直後は某氏のこの志や取り組み事項がテレビや新聞で紹介された。しかし、この報道は何のためのものだったのか、時間が過ぎるに従いその疑念は大きくなる。単に後藤氏の死を美談にするだけのもだったのか。そう思わざるおえないのである。

 後藤氏の死後数週間後のテレビおよび新聞でのニュース。エジプトが報復のためにイスラム国を空爆したというもの。どこをいつどのような規模で空爆したのかということが盛んに記事になる。だが、そこにその空爆が一般市民にどのような影響を与えているのかという内容がない。戦争をしないと憲法で宣言している日本にとって最も重要な関心ごとは世界で起きている戦争が罪のない人々にどのような影響を与えているかということではないだろうか。そして、もし与えているならば、いかなる理由があったとしてもその殺傷の行いを停止するよう、働きかけていくことが日本の世界における使命ではないだろうか。

 しかし、日本のマスコミの戦争報道は戦争の残忍さを全くといっていいほど伝えず、淡々とまるで戦争が正当な手段であるかのように視聴者に見せているのである。これは舞台に似ている。舞台で演技をしている人の後ろに大道具さんがつくった背景がある。立派な建物であったり美しい山々であったりする。実際、その背景は1枚の板であり、裏は何本もの木で支えられている。舞台で観客の目にはけして見えてこない部分であるが、こうした目に見えない苦労と支えがあって舞台は成立するのである。

 戦争は舞台なのか。そうであってはならないのである。しっかり舞台裏も報道するべきなのである。


 

テーマ:日記 - ジャンル:日記

遠くに離れるという事

 通信と交通がこれだけ発達したならば「会おう」と思った時に会いに行き、伝えたいと思った時に伝える行動はできるのだろう。しかし、自分でいくらそのように思い考えても相手が受けるかどうかはわからない。いつも身近にいて相手のことが何となくでもわかっていればそれを考えて会う事ができ伝えることもできるかもしれない。が、離れていればお互いに知っているようで何も知らない。まあ、離れていなくても知らないことは多いのだが、離れることをもう少し深く考えてもいいのではないかと思ったのだ。

 ある俳優さんが言っていた。仕事で親と離れて暮らすことになった。その時点で親と会うことはない覚悟をした、というようなことだ。一般的には「帰省」という形で親とは離れた後も会うと思う。しかし、人によっては、例えばこの俳優さんのような決意と覚悟の場合などは該当しないのである。

 離れるということは会いたい時にいつでも会えないのであり、話したい時にいつでも話せないことを意味するのである。だから一期一会というのは本当に大切なことだと思う。たった数時間の出会いが一生心に残ることもあるだろう。人の暖かさのようなものが自分の心を暖かくしてくれる。自分もまた少しでもわずかでも熱源になれたらうれしい。

 人はいつまでも暖めあうことはできない。けれど、一時の暖め合いがそのまま心の中で続くのだと思う。永遠に。

カーボンオフセットの矛盾

地球温暖化ガスの削減を地球規模で進めるための一つの方策として「カーボンオフセット」というものがある。名前だけなら何となく聞いた方も多いだろう。また、その内容も何となく理解している方もこれまた多いと思う。私も漠然と理解していたので少し専門書を読んでみた。それでも、なんだかよくわからない。何かストンと頭に入ってこない。私の頭が悪いのかとも思ったのだが、どうもこの仕組み自体が穴だらけのものだと思えてきたのでそのことを書く。


下の図がカーボンオフセットに対する私の解釈と見解だ。
話を簡単にするためAさんとBさんとした。これを企業や何かの組織に置き換えてもいい。

さて、Aさんには「削減枠」が割り当てられた。Aさんは温暖化ガスを削減枠分、削減しなければならない。オレンジ色部分はなんとか削減できた。車の運転をやめて徒歩にして削減したわけだ。

ところがどうしても自分で削減できない部分があった。それがブルーの部分だ。よほど何か新技術でも開発されないかぎりこの部分の削減はAさんにとって厳しいのである。

そこで、AさんはBさんにお金を出した。Bさんはそのお金を元手に温暖化ガスを削減したのだ。そういうことで、Aさんは自分では削減できなかったが、Bさんという他人に削減してもらい、自分の削減枠をクリアしたのだ。このクリアを「オフセット(埋め合わせ)」という。温暖化ガスは主に二酸化炭素(CO2)であり、これをカーボンと言っている。よって「カーボンオフセット」というわけだ。

カーボンオフセット

問題はここからだ。
AさんがBさんに支払ったお金がどのように捻出されたのか、なのである。
その種類のいくつかを囲みの中に記載した。

要するにAさんがBさんに支払ったお金が、その支払いのために新たに発生したものであり、その発生のために温暖化ガスを新たに発生しているのならば、本末転倒ではないかと考えたのだ。もし、新たに発生している二酸化炭素が膨大ならば本末転倒どころか問題の拡大化になるとも考えた。

例えば、Aさんのお金の出所が次の場合だったとする。
Aさんは農作物を作って売っている。Aさん自体は温暖化ガスを排出していない(厳密にはしているかもしれないが、ここではしていないとする)。しかし、その販売はオンラインショッピングだ。つまり自動車の力で消費者に届く。AさんがBさんにお金を出すために沢山農産物を売ったとしたら、結局温暖化ガスは増えたことになるのだ。

カーボンオフセットの仕組みにはこのへんをチェックする機構が無いというのが私の見解だ。

埋め合わせしたようで埋め合わせになっていない。
そしてカーボンオフセットはお金のある人、組織、国にとって都合の良いトリックでしかないのかと考えるのである。

本当に温暖化ガスを削減しなければならないのであれば、所謂先進国と言われる国々(ある意味では先進国でもある意味では後進国であると思う)がそれぞれの欲求に歯止めをかけ、不要なものは削減するという、そうした単純なことをしっかりやらなければならないのではないか。「お金」を取引に使う時点で、極めて世界の国々に不均衡な開発や利益をもたらすだけだと思う。

私の疑問はおかしなものだろうか。


自然と教育と幸福感

ムーミンの作家、トーベ・ヤンソンの生い立ちに関する書物に触れる機会があった。そこから今の日本について思ったことである。

トーベ・ヤンソンは芸術家の夫妻のもとに生まれる。自然豊かな中で過ごす。父は嵐の海にトーベ・ヤンソンを連れ出した。自然の脅威などを教えるためらしい。フィンランドの暮らしは自然が基調だと読んでいてひしひしと感じる。

中にムーミン物語語録のスナフキンの一節が次のとおりあった。
「・・・・なんでも自分のものにして、もって帰ろうとすると、むずかしいものなんだよ。ぼくは、見るだけにしているんだ。そして、たちさるときには、それを頭の中にしまっておくのさ。ぼくはそれで、かばんをもちあるくよりもずっとたのしいね。」

なんでも手にいれようろするとそれは帰ってストレスや垢になる。あるがままのところにあるとおりにしておくのがこの世界、地球の共生や存続に大切だと思った。

「自然」。私たち日本人は生まれてからどう自然と接し何を学んできたのだろうか。ふとそんなことを考えた。田舎には自然が満ちあふれているだろうが都会は違う。子どもたちが自然とどのように接しているのだろうか。

デンマークの教育に関するサイトに出会った。

デンマークの豊かさ~教育の意義とは~
京都産業大学文化学部 国際文化学科 水谷 有希
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/mizutani(07-1-28)
である。

デンマークでは1920年代多くの労働力を男女問わず必要にした。そのため子育ての環境を整えた。保育園も幼稚園も子どもの権利として国が確保したのである。デンマークの子どもの教育テーマは次のとおりだ。
・全般的な幼児1人1人の発達
・社会適応力
・言葉
・身体と運動
・自然と環境
・文化的表現と価値

この目的のために教育が行われている。この目的は本当の目的であって、形だけのものではないとこのサイトを見ていて感じた。子どもたちの好奇心や興味、自発的なものを何よりも重視するとともに大人も子どもたちを真剣に向き合う教育の姿である。学校はデンマークにとって必要不可欠な存在であることが明確であり、それゆえ、何か問題があればそれについてセクションを問わず議論はなされるのである。

他にも沢山特筆すべき点があるが、詳細は上記サイトで確認してほしい。


デンマークは幸福感の高い国であり日本はその逆である。この評価がどこまで理論的科学的で客観的であるかはわからない。が、わかるような気がする。

一口でいうならば「個人の主体性」の重視の違いである。
これは個人だけでなく「自治」にも通じるだろう。

主体的にできることの幸福感。

物があること物を持っていること地位があること学歴があること。ここにどの程度の幸福感が宿るのであろうか?日本のことである。

政府は女性の社会的向上(何をもってこのようにいうのか、そのへんも曖昧だが)をうたっているが、であれば同時に子育て環境も整えなければならないだろう。それ以上に子どもの教育について日本の将来のためにもっと考えていかなければならないだろう。文科省が学校のカリキュラムをあーだこーだいじっている次元の問題ではないのである。もっと根本的にもっと地域的に取り組んでいかなければならないことなのだ。先生達にはあまりに時間がないのである。子どもたちに接する時間でいっぱいである。先生達で、地域の人達と、などそういう議論や話の場、子どもたちの問題に向かう場と時間はあるのだろうか? 恐らくないのである。これは日本の教育の姿なのである。「経済」に洗脳され、教育に対するお金と時間を切りつめてしまうのである。

都会に人はますます集中する。主に仕事のためだ。
保育園の子どもたちの声がうるさいと高齢者達が言う。高齢者の気持ちもわかる。子どもたちものびのび育てたい。高齢者が悪いのか、保育園が悪いのかそんな論争を呈しているようなのである。しかし、これはおかしいと思う。今の日本の「都会」というものを否定しなければならない。否定してつくりなおして行かなければならない。そのことをもっと深刻に受け止めていかなければならない。自然を理解し人を愛し自己の意志を持ち、そういう人が育つ環境について真剣に考えなければならない。あっちが悪いこっちは我慢しろ、と言っていられる状況ではなくなってきていると思う。

地方創世といいながら、その一方で東京オリンピックだとやっている。老人と保育園が騒音でいがみあうような都市の国のどこに幸福感などあろうか。原発の運用という国民の生命に関わる案件をめぐって国民投票もなしに進んでしまう国家のどこに誇りをもてるのか。

誰かが言っていた。「日本は何でもある。それなのに幸福でないなんて贅沢」と。この言った人、それは誰でも享受していることだと思っているのか? 朝から晩まで寝る以外には仕事をしていて、それで何でもあるのがいいのだろうか。時間は自然は。

物があればそれが豊かなのか。無いのは困るが、過剰にある必要もないだろう。誰にでも必要最小限のものはあると思っているのか。時間は?自然は?コミュニティーは?家族は?














政治的不正の温床

閣僚の二人が公職選挙法に抵触している疑いで辞任した。
疑いのある1人小渕氏は真実を明らかにしたいという旨のコメントを出した。

マスメディアでは
「有権者の怒り」
「辞任で幕引き」
「真実を明らかに」
などと毎度同じような切り口の記事。

そこには問題を根本的に解決していこうとする姿勢は見えない。

小渕氏のケースの概要は次のとおりだ。
毎年1回小渕氏の関係する政治団体が主催して小渕氏の選挙区内(群馬県)の有権者を東京の劇場に招くが、それに関わる会計処理が不明朗であり、かつ、有権者に対して便宜を図った形跡が見られたのである。

良識のある人からみれば明らかにわかる不正が群馬県で公然と行われていたようなのである。

有権者に便宜を図った小渕氏の周辺は責められて当然であるが、それを許した有権者の意識の低さこそが大きな問題ではなかろうか。恐らく長い間慣例のように行われてきたのであろう。誰からも疑義が出されず、関わった人々は長いものに巻かれてきたのである。何人かは問題意識を持ったのかもしれないが、それを発信することができなかったのかもしれない。それとも、誰も疑問を持たなかったのかもしれない。もし、そうであれば、疑問を持たなかったことに関して十分に検証していく必要がある。その地域の人々が悪いと思って平気でいるのか、悪いという自覚がないのか、そのへんのことである。

小渕氏が何をどのように明らかにするかわからない。
本当に日本の政治を良くしようとするならば、自分の支援者を糾弾することにもなるだろう。しかし果たしてそれができる器かどうか。

マスメディアは自分達の視聴者、購読者に対し「皆さんは、おかしい」と言えないのだろう。本来はそういうことを言えるマスメディア、マスメディアと視聴者・購読者の関係が健全だと思うのだが。だから、いつもいつも、政治的問題は結局「幕引き」で終わる。今のマスメディアが問題提議をしている限りでは。

政治的不正の温床はそのままぬくぬく存在し続けるのである。







弱さは強さへの道

 地球誕生から現在の人が登場するまで。人は進化を経てきた。地球は途中で何度か生物にとって壊滅的な状態になった。地球上の生物の95%が死滅するようなこともあった。恐竜が絶滅した話は有名であろう。

 一般的には強いものが生き抜いてきたと頭に出てこないだろうか。しかし、どうやら進化の過程を眺めていくと弱いものが生き抜いてきたといえそうなのである。それはどういうことか。

 弱いものは強いものの陰で耐え忍ぶ。身を守るためのノウハウを身につける。身につけた結果や身につけるためのプロセスが弱いものを強くする。言い換えれば次のようなことだ。強いものと弱いものがいる。これは両者を相対的に比較した話である。しかし、この両者を例えば「地球」を基準にして絶対的に評価すると、弱いものが一気に浮上するのである。

 この絶対的評価で考えてみれば、人間は地球上の生物で最も弱いものであるかもしれない。裸のまま森で一晩生きられるだろうか。そう自問してみた。

 ピンチはチャンスといはよく言われる。これも今回のテーマに関連したことなのだと思う。一見弱いものであることを恥じることはないのである。これは社会的立場でも勝負ごとでもなんでも該当すると思う。要は弱い状況をどのように耐え忍ぶか、どのように生き延びるかが大切なのである。そうした後で「躍進」とか「飛躍」があるかもしれない。しかし、そこには注意が必要だ。得た強さは一時的なものなのか、継続的なものなのか。

 いかにして生きて行くか生きてきたか。人はここに本物の強さが問われるのだと思う。

代理出産

国内では賛成の人、反対の人、半々程度だろうか。

私は医者に問いたい。赤ちゃんが体内にいる時の母の子どもへの影響について。
その影響があるのならどのようなことであるのか。

代理出産で生まれた人の実際の思いはどうなのだろうか。
私自身がそうだったら、私を生んでくれた方に会いたいし、その方を母として愛したいと思うかもしれない。
いずれにせよ相当複雑な気持ちになるだろう。

テレビで「子どもができなかったら生きていけない」という女性のコメントがあったが、そういう人に限って生きていけると感じてしまった。

代理出産を許可している国否定している国いろいろあるようだ。
しかし、生物としての一線を超えてしまっている事態であることは確かだ。
「そんなこと言ったら臓器移植とかなんだとかとっくに一線超えているじゃないか」
それはそうだ。

人間はどこでどのように生物としての進化から逸脱することに歯止めをかければいいのだろうか。
私にはわからない。
ただ、何かで間違えれば人類は滅亡するのかもしれないと思う。世の中は人間のためにあるわけでもなんでもないと思うから。

固定概念

「定年退職した夫みたい」とある人がある件で言った。

日本の女性がこういうことを発しているのによく遭遇する。直接的にも何かの雑誌等でも。

「定年退職した妻みたい」とは日本ではならないだろう。

「定年退職した夫みたい」
こういうことばが女性から発せられるうちは日本に男女平等参画社会などなしえないだろう。自分を不平等だと言っている女性自身が男性の状況を肯定し、そのうえでその男性を否定しているからだ。
「定年」というものを肯定し、そこに生きる男性の生き様を否定しているという意味だ。


本来「定年」は自分で決めるものである。自由とはそういうことである。

世界でも定年のあるところ、ないところ様々だ。だから、日本は日本で考えれば良いことなのであるが、「定年」ありきではいつまでたっても社会は良い方向に進んでいかないかもしれない。

もちろん理想と現実はある。しかし、理想を追求しないところに進歩する現実などない。

オーストラリア、イギリス、アメリカには定年はないようだ。アメリカでは履歴書に年齢に関する記載をするところがないそうだ。自由を確保するということはそういうことなのだ。日本はアメリカではない。が、何をどう決めるにせよ、その土台は日本のアイデンティティとして明確にされるべきであろう。でなければ、国として弱体かするだけである。

地球温暖化問題と詭弁

最近もニュースでやっていた。
あと世界の平均気温が2度あがれば深刻になる、というようなことを。

温室効果ガス削減の話がいつも話題になる。
しかし、話題にしなければならないのは、地球全体を通しての人類の生き方だと思う。

ガス削減に関してガスが出ない方法について論じられるが、ガスを出す必要性の有無について言及するニュースに出会わない。

例えば。
自動車は確かに便利である。エネルギーさえあればどこにでも人を運んでくれる。何百キロ先でも、何百メートル先でも、である。車を使って、玄関先までほしいものがやってくる。このままいけば、車はますます使われる。今まで使っていなかった国でもどんどん使われる。そしてガソリンのままではガスが増えるばかり。それでガソリンから電池にきりかえている。しかし、完全に切り替わるまでにはあと数十年はかかるだろう。ところが、放っておくならば、この数十年の間に使う車の数はうなぎ上りになるだろう。
自動車を使う必要のない生き方を人類は選択しないのだろうか。

エネルギーを消費して人間が欲を満たせば、そのエネルギーの排出が地球温暖化につながる、ということだと思う。

何を今更の戯言を、と言われるかもしれない。
ただ、私には地球温暖化問題が歯止めのかからない人類の欲望に「まった」をかけているものと思うのである。


心の入った行動。
わかるようでわからないことだと思う。
できるようでできないことだと思う。
自分でさえ自分の心がわからないと思う。
本来ある心に自分の何かがベールを
おおってしまっていることが多いと思う。
心は行動のガソリンだと思う。

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バランス

運動不足でテニスをする。しかし、時の経過とともに、テニス後の足腰痛が酷くなっていくようだ。何故だろうか。

テニスは運動不足解消には部分的に役立っていても全てではなく、下手をするとかえって体を壊すことになっていたと確信した。

理由は「バランスの悪さ」である。
テニスは一見全身運動のように見えるかもしれないが、やり方によっては大した運動にならない。ダブルスなどはペアに上手く立ち回ってもらえば自分は動かなくてすむ。自分のショットに技術があれば、5本続くところを3本で終わらせることもできる。もちろん、これらはアマチュアレベルの話であるが。

つまりテニスで鍛えられる、言い換えれば負荷のかかる筋肉は限られているのである。よって、運動不足の体にテニスはバランス悪く影響する。

日頃の運動不足を補うための基本は「歩行」なのである。ウォーキングである。このバランスのとれた全身運動によって体の各所の筋肉がバランス良く維持されるのである。バランスの良い筋肉はバランスの良い骨格を維持し、結果として各種の痛みは起きなくなってくるのである。

以上は「体」の話しであるが、この「バランス」については人の道に通ずる。
バランスばかりを考えて行動してもいられない。が、大胆な行動ができるその反対にはそれを支える、言わばバランスをとる人なりなんなりの存在があるのである。

バランスを失った個人、バランスを失った組織。
これらにバランスを取り戻すチャンスはいくらでもある。時にはバランスを失うことも必要だとも思う。失いながらより高度で強力なバランスのための力を身につけるものと思う。

誇り

食品の偽装表示が日本全国でボロボロ発覚している。

「店員が無知だった」「知らなかった」「芝えびは小エビの総称だと思った」など、経営者や代表者からはいい加減な言い訳ばかりである。

材料と料理と料理名がバラバラで動いているわけがない。厨房も接客もフロントも知ってのことだろう。

同様なことが本日テレビ関係で発覚した。高知県・四万十川のカワセミとして流れたTV映像(
フジテレビ)が、東京都葛飾区の都立水元公園のものだったのだ。

これらのニュースに共通な背景は次のようなことだろう。
・消費者にはどうせわからないだろう。
・本当のとおりにやったら商品が提供できなくなり、それは損失になるから避けたい。

自分の名前(ブランド)に誇りがないのである。
誇りとはなんだろうか。
正義を貫くことが最も根底にあるはずだ。

誇りのない仕事は間違いなく社会を駄目にしていくだろう。

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平等

うつの原因は平等が壊れた状況によるそうだ。
平等のある社会、それは狩猟社会だそうだ。皆で協力しないと食べられない。だから穫った獲物も平等に食べる。

平等が崩れる時、人の脳のある部分が刺激され、それはストレスとなり、ストレスはうつを引き起こす。詳細は専門書などによって確かめるとして、以上の理論を私はまずは正として理解した。

どうしたらよりよい社会になるのか。
その重要なテーマは「平等」なんだと思う。シンプルなことだが、簡単なことではない。社会の中は「不平等」が増長するような方向に向かってはいないだろうか。

電気や交通が発達し様々なものが便利になるが、それとともにストレスも増している。こんな状態で良い社会になど向かっていかないと思う。

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地球的開発の抑制

中国で河川が汚染され流域の人達のガン発生率があっがたことがニュースになっていた。以前の日本の環境問題がそのまま中国に時を超えて繰り返されているようでならない。
日本は過去の過ちを繰り返していないだろうか。
国内ではなく国外に汚染のきかっけを蒔いてはいないだろうか。
中国で深刻な原発事故が起こればそれは日本にも大きな影響を及ぼすことも十分予想される。にもかかわらず、原発を発展途上の国々にばらまくのか。

アフリカの開発が心配である。
この自然の地に無計画に開発をすすめればどうなるのか。

所謂先進国は地球レベルで開発に関する計画を建てなければならない。そのためには経済発展の抑制も自ら行わなければならない。

世界の貧困を無くすための条件。それは欲望の抑制に他ならない。今、所謂先進国にこの抑制が課題としてつきつけられているのである。

自治力

参議院選挙が終わり、日本国の政治に関してあーだこーだとTVで評論家達の評論が始まっている。

しかし、何を聞いても空虚である。この評論家達、日本国をどこから論じているのか知らないが、自分の住む地域の自治に関して何か貢献しているのだろうか、何か考えているのだろうか、と。日本は国が国がと戦後今日まで進んできた。地域の環境に合致した地域の政治を行わなくては、日本の力強い未来は作っていけないだろう。なんでもかんでも東京等の都心に集中させ、集中管理し、効果的生産を行うのだろうが、そこには人同士が自発的に形成するコミュニティの力が薄れ、その結果として自治の力、自治力も育まれず衰退していくのである。集中管理の仕組みに当てはまらないものははじき出されるか、生きる屍となっていくのである。

どこかの党のキャッチフレーズに「強い日本を」「日本を取り戻す」とかあるが、「強い地域を」「地域を取り戻す」が並列で述べられなければ単なるスローガンで終わる。もっと草の根に帰るならば「強い個人」「個人を取り戻す」までに言及すべきである。


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急がば回れ

選挙で新しめの政党が改革について連呼するが、そういうのに国民が簡単に乗らなくなっただろう。そういうのは某政党(新たな党ではないが)でこりごりしたからだ。

新しめの党が自分たちの考える政策実現に近づきたいならば、急がば回れで、実績を積み、それをひとつひとつ国民に示していくことが肝要だ。

口ではいくらでもいえます。いくら立派なことを言っても、行動が伴わなかったら信頼を得れないのは言うまでもないでしょう。

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「自治」と「自治体?」

 「自治」とは読んで字のごとし、自らを自らの責任において律することをいう。これを前提に書く。

 私は学生時代、半年程度だがある自治寮に住んでいた。住人で作った規約のもと、寮に住み続けるために必要な事を住人が分担して実施するわけである。寮の場所・建物を提供してくれるのは大家であり、家賃は住人が決め、担当者が全員分を徴収して大家に届ける。定期的に住人全員による会議があり、問題があれば解決に向けて話し合う。大家は基本的に何もしないのである。住人達は学生としての必要最小限のことしか充足させようとしなかったので、掃除はしたが奇麗とまではいかなかった(笑)。

 この自治寮の「自治」を私は特に疑問なく受け入れる。しかし、日本において今日使われている「自治体」の「自治」には違和感があり、素直に受け入れることができない。そして最近、この感覚はネット上のある文献を見てから確信に変わった。それは13年くらい前に直接お話を伺った方のものであり、偶然検索でヒットした。タイトルは「アメリカの自治体制度」で、その冒頭に次のように書かれていた。「アメリカでは自治体は市民がつくる。住民が住民投票で自治体をつくると決議してから初めて自治体ができる。決議しなければ自治体はない。だから、アメリカには自治体のない地域(非法人地域、unincorporated Area)が面積の大半を占め、約1億人(総人口の38%)が自治体なしの生活をしている。」と。これは、私のイメージしている「自治」と合致した。アメリカだからということではない。

 日本では地方自治法で地方自治を担うものを「地方公共団体」と明記している。地方自治法の第一条は次のとおりである。
「この法律は、地方自治の本旨に基いて、地方公共団体の区分並びに地方公共団体の組織及び運営に関する事項の大綱を定め、併せて国と地方公共団体との間の基本的関係を確立することにより、地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障することを目的とする」 
 この文の”地方自治の本旨”というものに定義はない。”本旨”は正に自治の主人公である”自”が決める事である。であれば、この”自”は誰になるのか。地域住民一人一人である。地域住民の総意で自分達の地域の”自治の本旨”を定め、それを共有し、その本旨に基づき自分達の自治の憲法を決めるところから「自治」は始まるものであると考える。それが前述の「自らを自らの責任において律すること」において当然なことだと思うからである。

 さて、日頃新聞やテレビでお目にかかる「自治体」とはどのようなものであろうか。自治体の憲法を自分達でつくった記憶はあるだろうか。「ある」と答えるのは、せいぜい首長か議員か行政職員、それに加え学者と言われる方々だけだろう。一般住民でこの憲法をつくった感覚を持つ人にお目にかかることはほとんどないだろう。つまり新聞・テレビでお目にかかる「自治体」の"自"には一般住民は実態として含まれていないのである。であれば、そういうものを「自治体」と呼ぶところに問題があるのである。「自治体」とは言わず「地方公共団体」というのが正しい。"地方自治の本旨"が地域住民に共有されることなく、地域住民に共有される憲法もない地域の中で地域の統治を生業としている団体が「地方公共団体」なのだ。日本国憲法に定義された存在である以上これを否定する理由もないだろう。「地方公共団体」があるから日本は中央政府のコントロールのものと統治されているのである。地域住民はこの「地方公共団体」によって管理されているのである。地域住民にとって「地方公共団体」は所謂「役所」である。

 では何故「自治体」と言い出したのだろう。「地方公共団体」とだけ呼んでいることが何故いけないのだろう。その起源は私には現在のところわからない。そこで、呼び始めた理由を次のとおり想像してみた。中央官僚による中央集権の統治の仕方では情報化が進む現代において、地域ごとに異なって多様化複雑化する問題を解決できない。基本的に中央政府の指示で動く「地方公共団体」では地域の問題を解決していく力が人材的に欠けているのである。であれば、「地方公共団体」そのものの性格を変えていけばいいのだが、そういう道に明確には進まなかった。人材が必要であれば人材を地方公共団体に取り込むことを推進すればいいのだがそれをしなかった。それでも、ともかく統治にあたって、地方公共団体に属する人以外の人に統治への関心と問題解決の力を得なければならなかったのだ。そこで登場したのが「自治体」という"看板"だ。恐らく、欧米の自治の状況から学者が「これからは自治体だ」と言い出し、それを受けた中央官僚が「なるほど、そうですね」ということで納得した結果、「自治体」という言葉が日本に出回り始めたと思う。以上は私の想像である。

 ところで、日本の官僚政治の始まりがいつか少し調べてみた。それは日本が大日本帝国憲法を制定した時からのようだ。当時、憲法制定にあたりドイツ憲法を参考にしたが、ドイツの議会が政府の提案を阻んでいる状況を目の当たりにした日本政府要人は、大日本帝国憲法に議会を通さないで法案を成立する仕組みを盛り込んだのである。端的には天皇と政府に特権を持たせたのである。そして、政府は近代国家を作っていくため、政府を効果的にサポートするよう、その役割を官僚に託し、官僚に対して政治に関わる教育を押し進めていったのである。その教育の場の大きな一つが東京帝国大学なのである。この教育による官僚の知識の向上は日本の近代化にある面で寄与するが、その特権的な立場は議会を軽視する風潮をも育んだのである。そういう意味では、民主的に物事を進めて行く民主的な力の進化を近代化に欠かせないものと捉えた場合、日本の官僚政治が日本の近代化をことごとく遅らせたと考えてもいいのではないかと思う。議会という機構は持つが、議会が高度な議論の場に進化していかず、逆に予め定められたシナリオどおりに進むような「形式化」の色を濃くして行ったと思われるからだ。

 では、官僚政治の生い立ちに対し、自治はどうだったのだろうか。これも少し調べてみた。戦前の大正時代、自治会・町内会が地域住民により自発的に作られていたようだ。地域に住む人が基本的に参加を望まれる組織である。それまでは地域の主だった人で地域の運営をしてきたが、都市化・大衆化によって複雑化する人々に対応できなかった。そこで自治会・町内会を組織したのである。地域住民が自ら欲して作り出した仕組みということで「自治」と言っていいと考える。しかし、ここから自治会・町内会は紆余曲折の道を進む。戦時下、国策により、町内会の開設が奨励されるとともに、既存町内会に新規のものを合わせ、全国一律に整備したのである。政府が、戦争に対する国民の意思統一を図るため自治会・町内会を活用したのである。想像するにこの時点で日本には大きくわけて二種類の自治会・町内会が存在したと推測する。地域住民が自発的に作ったものと、戦争をきっかけに作ったものだ。「自治」という意味に関しては前者と後者はその生い立ちから別物である。そして、この頃から「自治」という言葉の意味が変質してしまったのではないかと推測する。戦争末期、自治会・町内会の役員は行政の末端の公務員として位置づけられている。自治会・町内会は国家統治の末端組織となり、「自治」の体をなしていなかったと考えられる。ただし、末端組織となることを住民の総意で決めた場合この限りではないのだろう。

 戦後GHQにより自治会・町内会は解散が命ぜられた。GHQは自治会・町内会を戦争協力組織として認識していたからである。ここで、内務省は困惑した。戦後の復興行政には、どうしても自治会・町内会の協力が必要だったからである。そこで、それまで町内会事務所であったところを行政の出張所という看板に付け替えたのである。一方地域住民としても自治会・町内会の機能は必要だった。そこで自治会・町内会を防犯協会、衛生組合、日赤奉仕団というような看板に替えたのである。つまり、自治会・町内会はGHQ管理下のもと、名称だけ替え、機能は戦時とほぼ同様に進んでいたのである。そしてGHQの管理が解かれた後、公然と復活したのである。

 この後、しばらく行政が曖昧に自治会・町内会を活用していたため、自治会・町内会の不満は募り、行政に対する影響力を強める形で行政区画ごとに自治会連合会・連合町内会を組織することになる。これを受け、行政は行政協力員制度を設け、町内会長を正式に行政協力員とするようになったのである。そして今日に至っているようだ。自治会・町内会は高齢化が進んでおり、その反対に市民団体、生協、NPO等の公共を担う組織が登場してきたようである。

 簡単に近代の官僚政治と地域の自治について私なりに振り返った。日本に自治体ができ、それが発展する下地はあったと考える。しかし、それは日本の民主化のターニングポイントで潰されてしまったようである。それでも、地域の自治や自治意識は自治会・町内会、市民団体、生協、NPO、地場企業等様々な形の組織や考え方で、ある時は強烈に、そしてまたある時は控えめに「地域コミュニティ」と「国家」の狭間の中で継続されてきたと考える。
 日本に自治体ができるのはこれからだ。地域住民の住民投票に基づきその地域の憲法である条例をつくり、そこから自治体の活動が始まると考える。この自治体は地域住民、自治会・町内会、市民団体、生協、NPO、地場企業等の集合体であると考える地域もあるだろう。いずれにせよ「○○である」とは、その地域住民の総意で決めることであろう。


 地域住民の条例に関わる住民投票を経ずして自治体を名乗るべからず、というのが私の主張である。地域住民のコンセンサスなしに自治体を名乗るとどうなるか、どうなっていくかを言及・推定・考察する。

(1)「自治」のイメージが変わっていく
 新聞・テレビ等で普通に「自治体」と使われている。さて、一般住民に「自治体とは何ですか」と質問したらどのような回答が多いだろうか。次の答えが多いと想像する。「役所のことだ」と。ここで質問を進める。「役所とはなんですか」と。「役所は役所だろ(怒)」と煩がれそうな気がする。ともかく、「自治体」は「役所」だ、というイメージである。行政サービスを提供してくれるが、そのサービス品質は"お役所的"という「役所」だ。"お役所的"という言葉、明確な意味はないながらも極めてツーカーと通じる言葉である。
 こうした「自治体」と「役所」は住民のイメージの中で結ばれ、下手をするとこの結びつきはより強固になっていくとさえ思う。何故ならば、この結びに疑問を抱かないからだ。そして「自治」とは本来「自らを自らの責任において律すること」だったのだが、それが「自らを他者の責任において律すること」に近づいていくと考えるのである。

(2)悩みが深まるだけの地方公共団体関係者
 「地方公共団体」は看板だけ「自治体」にすげ替えた状態にある。「自治体」に関して「こうあるべきだ」という理想を持つ人はその理想に近づくどころか益々遠ざかっていくかもしれない。何故ならば上記(1)のような状態であるからだ。「○○電気店」がある日「○○エネルギー店」になったとしよう。しかし、そのお店の物もサービス品質も何も変わらない。看板の掛けかえ時は「エネルギー店ってなんだろー」となるが、時間の経過で「エネルギー店って電気店のことだろう」となるであろう。そこへもってきて「エネルギー店っていうのは電気だけでなく他のエネルギーも取り扱うのだ」と言っても、実際に見せなくては到底理解は進まないだろう。「自治体」に関してはその基本中の基本である条例が住民のコンセンサスなしに決まっている。そんな状態で理想論など通じない。そうなってくると、さらに問題は深みにはまっていく。通じない人は遠ざかり、少しでも通じる人が理想論に耳を傾ける。通じる人は「地方公共団体関係者」(主に、行政、首長、議員、研究者)なのである。これは「地方公共団体関係者」の自治に関する自治意識の底上げに意義有ると考えるところだろうが、ここに大きな過ちがある。「関係者」と「関係者でない者」との知識やイメージの溝が深まるのである。理解が深まるのではなく溝が深まるのである。実態と理想がかけ離れていくのである。「関係者でない者」に理想論を啓発し、「関係者」には理想を捨て、現実を切り開くことを推進して行かない限り、「自治体」という看板に合致した内容に進むことはまず、ないであろう。そういう意味でも「自治体」という看板を外し、「自治体」を作ることに向けて準備するほうが遥かに有意義な時間の経過を辿る事ができると思う。話が格段にシンプルになるからである。

(3)呼び名の使い分け
 ○○市のホームペ—ジというのはある。しかし○○自治体のホームページというのは見つからない。○○市のホームページの発行責任者を見ると○○市役所とある。日常の市政において一般住民には「自治体」という言葉が馴染めるものにはなっていないと思われる。
 ちょうど環境省のホームページがあったので見てみる。すると「広域処理に対する自治体の状況」というタイトルで資料を掲載していた。内容を見ると「受け入れ先○○市」とある。
 これらから見えてくることがある。細かく調べていないので、今のところあくまで以下は推測だ。「自治体」という言葉、中央政府は一般住民に見えるよう日常的に使っている。そして、その「自治体」の中で表現されているのは○○市役所という組織名ではなく、○○市という行政区画名である。一方、地域の市役所は「自治体」を一般住民に見えるよう積極的には使っていない。
 政府が瓦礫処理を地域にお願いする時は「自治体にお願い」などと新聞に出ている。ところが案件によっては「市町村に義務づける」など「自治体」ではなく「市町村」と呼ばれる。
 このように「自治体」という言葉は、立場と案件によって同じ対象でも「自治体」と表現して使ったり、「市町村」や「○○市役所」というようにあえて使わなかったりする存在なのである。
 現状から感じること。それは日本において「自治体」という言葉は、中央政府の官僚が中央政府のイメージで使用する中央政府の言葉であるということである。
 なお、新聞やテレビ等のマスコミでも「自治体」と言ったり「市町村」といったりケースバイケースである。これについても何か使い分けに関わる傾向があると思う。ちなみに「地方公共団体」というのはなかなか出てこない。しかし、憲法で明記されている言葉が何故出てこないのだろうか。これは国民と憲法の関係に関わることでもあると考える。

(4)形骸化
 昨今、いじめ問題で教育委員会関係の制度が形骸化しているという問題が新聞に出ていた。Aという仕組みは形骸化しているのでBという仕組みにする、という。その仕組みを作るのも先導するのも政府である。しかし、これもやがて形骸化するだろう。自分たちの問題を自分たちの考えた仕組みで解決し、自分たちの考えで運用・是正することが必然的に形骸化を少なくする。もし自治体が内容に関しても自治体ならば、この問題に対し、各方面の知恵が必然的に集積されることだろう。しかし、それはなされず、ただただ「自治体」は政府の顔色を伺うのであろう。喉元過ぎれば熱さを忘れ、形骸化は繰り返されるであろう。


 地方分権、地方自治、などなど地方公共団体関係者の中では話題になっているだろう。看板を「地方公共団体」から「自治体」にした関係上、話題になることは必然といえば必然である。「自治体」に関する理想も各種あるだろう。しかし、あまりにも実態が伴っていない。「そんなことはない」というなら「自治体」と呼ぶようになって何が変わったか誰かに説明してほしい。その説明が本当に一般住民に届くのかよく考えてほしい。いや届けるのではなく巻き込まなくてはならないはずだ。都合の良いところだけ参加してもらって「住民参加で自治り(じちり)ました」なんてますます自治体を遠くするだけだと思う。地方公共団体関係者がやらなければならないことはコップの水をこぼすとか、コップをぶち壊すことなのだ。コップの中に適当なものを入れてかき混ぜているだけではどうにもならない。どうせかき混ぜるならコップを壊すくらいの化学反応を起こすようなものを入れることだと思う。そして地方公共団体というコップを認識し、それを自覚し、コップを壊して、「自治体」を地域住民とともに新たに作り出すことを目指すことが大切だと思う。北海道に自治体をつくる、ということである。ホームページに「○○市自治体のホームページです」とタイトルされ、その地域住民の100%が一度は目を通し、20%はほぼ毎日閲覧するようなそんな状態が来ることを目指すのである。
 

以上

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形骸化

「いじめ対策に関するチェック体勢が形骸化しており、文科省で体勢を変更する方向で検討」うんぬんの記事があった。

これではいずれ形骸化は繰り返されるだろう。

文科省は形骸化の原因を体勢の仕組みのせいにしているが、この考え方は誤っていると思う。

当事者意識のない人々がつくったルールのもとで当事者が何かをしようとするところがそもそも誤りなのであり、形骸化への道である。

当事者が自分達で考え、自分達でチェックし、自分達で改善するルールとしなければならない。そこに外部からの意見等をもらうのはもちろん構わないが。





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できることをやる

最近、挨拶が蔑ろにされていると感じることが多々ある。もちろん、まずは自分が気をつけなくてはならないことだが。

「おはよう」とか「こんにちは」を発しない人。
何か手数をかけた時の「ありがとう」がでない人。

ほんのちょっとしたほんの気遣いが欠けてきているケースにしばしば遭遇することが増えてきた。

仕事の関係では特に顕著なような気がする。この不景気で、よりお互いにコミュニケーションを良くしなければならないと思うが、その逆だ。不景気だと、コミュニケーションまでも不景気になるのだろうか。これではどうしようもない。こんな時こそ、できることをしっかりやるべきだと思う。

どんな時でも誰に対してでも、きちっと挨拶できる人は大したものだと思う。そして、それは誰にとっても簡単なことのはずが、誰にとっても難しいことだと改めて思う。

「できることをやる」ということでは、「質問されたらきちっと答える」「やるといったことをやる」などがあげられる。こういうことが着実に積み重なっていけば、社会は着実に良い方向へ向っていくはずだ。


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決断のできない政治関連リーダー達

選挙が近くなり新党を結成したり党を移動したりと様々な動きがある。

選挙に向けて有権者に訴えるのは当然だが、その言動を見ていると、一体日頃何をしているのだか疑問に思う。日頃から有権者の声に耳を傾けているとは思えないのである。

日頃から耳を傾けそれを反映させた政策を訴える。さらに、日頃の実績に自信があれば、訴える必要もないだろう。

ところが選挙が「喉元過ぎれば熱さを忘れる」になってしまっている。その最たるものは、選挙でヘコヘコしていた立候補者は当選すると偉そうになるところだろう。ちなみに、能力のないものほどそうであろう。

みえみえである。選挙を通過しておくことは免罪符を与えられたようなものであり、中には水戸黄門の印篭と勘違いしているやからもいる。日頃の行動について選挙で審判を仰ぐのではなく、選挙特別仕様の仕事を行なうのである。その仕事にはコンサルタントに「どうしたら勝てる」と知恵を拝借することも含まれるであろう。

こんなことをしていれば選挙にお金がかかるのは当然なのである。逆に言えば、日頃から誠心誠意行動している議員や首長の選挙時にお金はいらない。これは極論かもしれないが、そうあってほしいと思う。

さて、こうした選挙特別仕様の仕事はいたって優柔不断なのである。「泣くも笑うも決断ひとつ」という歌詞がどこかにあったと思う。そう、物事、リーダーは決断を繰り返し、道を切り開いていくのである。ところが昨今の政治関連は違うようなのだ。党の基本として決断して掲げたであろう重要政策をあっさり撤回するのである。撤回するのも決断と言われればそれまでだ。ただし、そんな決断を繰り返すなら、人心はとても得れないだろう。あたりまえである。他にもある。選挙にあたって党の公認を与えるため、候補者に誓約書を提出させる件である。これもリーダーが決断し行なったことであろう。ところが、実施してみて周囲から批判を浴びたら、早速誓約書の内容を緩和したのである。一体何を決断して誓約書を導入したのだろうか。

決断が全て成功するわけではない。決断により失敗すれば、決断したものは何かしらの制裁を受けるものである。それは誰かから受ける場合もあれば、自らが自然に受ける場合もある。ともかく、決断は厳しい。だからこそリーダーとして舵を与えられ、受けるリスクの対称となるものも得ることができるはずである。

いつだって決断である。それでなければ人にはわからない。船に乗っていて旋回ばかり繰り返されたら乗客はたまったものではない。船長(リーダー)の決断は乗客(有権者)の覚悟も引き出すものなのである。船長が「南に向う」といえば、皆、南に向う決心をするのである。

この船長の件からして、選挙特別仕様のリーダー達の仕事は悲惨である。まず、自分の船で進むことを考えていない。他の船に引っ張ってもらうことばかり考えている。他の船に引いてもらえるなら、自分達の決断したものは二の次になっているのである。同時に乗客の顔色をいちいち伺っている。決断があるようでない。何故ならすぐに撤回するからだ。

「数さえ集めれば」
これが今回の選挙に"まず"見られるリーダー達の思考回路だ。
気持はわかるが数を集めるのは日頃の決断と努力の積み重ねの結果なのである。商品・サービスが売れるのもそういうことであり、それと変わらないと思う。短小軽薄な決断の繰り返しで"つぎはぎ、つぎはぎ"やるところに数(人)は集まらない。もし、集まるならば、それは乗客(有権者)がよほど疲弊しているかよほど愚かかどちらかだと思う。

今までにない根本的に新しい何かをしようとしたなら信念で貫くしかないと思う。最初は誰も見向きもしないかもしれない。一人でも二人でも見向いてくれることに全力を尽くすのだ。ひとつひとつ決断を積み重ねていくのだ。やがて、多くの人に理解を得れるであろう。時間はかかる。思ったよりもかかることもあるが、思ったよりもかからないこともある。物事はそういうものであると思う。だから辛いが、だから喜びもある。

時には時間が許されない場合もあるかもしれなし。そういう時どうすればいいのか正直わからない。わからないが、「慌てる乞食はもらいが少ない」というのはあてはまると思う。ただ、日頃から有権者の声に真摯に耳を傾けている人が慌てる事はないだろう。そういうことからすれば、リーダー達の各種行動状況は今後を見極めるひとつのスクリーニングになると思う。

コネと日本社会と民主主義

以下、頭から出てきたことをメモした自問文。



若者は政治に無関心であると言われる事があるが、私はそうは思わない。関心があればこそ、関心を持てない対象が日本の政治であると思う。

「政治を変える」「日本を変える」などが立候補者たちから連呼される。しかし、本当にそう考えている人がいるだろうか。ちょっとではなく、本当に、である。

こんなことをくどくど言いたくなる背景がある。それは大阪市の公務員入れ墨問題だ。入れ墨を入れている公務員を除外する話だ。私は最初、この差別に反対であった。入れ墨なんか入れていても仕事ができればいいだろう、という考え方からだ。

ところが、この件の問題は全く別のところにあるようなのである。ここから先が私の憶測なのであるが、どうやら的外れではなく、それどころか知っている人には知られている事実のようなのである。それは入れ墨はヤクザの縁故採用(コネ採用)の象徴だということなのである。公務員は必ずしも公明正大に職員を採用するということはなく、全国的に縁故採用もまかり通っていて、大阪ではヤクザがこれに介入しているという話しなのである。

こういった話はマスコミに流れない。流れないから、そもそもの本質的な問題が議論されず、単に入れ墨が公務に適不適かの表層的な議論で全国的に終わっている。

ここで話しを「縁故(コネ)」にする。「公務員は縁故なんてとんでもない」と思う方も多いかもしれない。しかし、日本の近年の歴史を振り返り、ひとつひとつ見ていくと、多くのことが「コネ」によって成されてきたことに気付いてくる。例えば企業の新卒者採用だ。コネばかりで固めても偏った社員構成になるだろうから適宜他の方法で採用することはあるだろう。

人は相手との信頼関係の中で何かを共に行なう。自分の眼力で信頼できない場合、その相手を自分の信頼している人やカテゴリーとどのくらい近接な関係にあるかどうかで判断する。こうした「信頼関係の数珠繋ぎ」によって日本の社会は成り立ってきたと改めて思う。「信頼関係の数珠繋ぎ」とは短く言うと「コネ」である。


さて、問題はここからである。このコネ社会に欧米の民主主義や自由主義が取り込まれてきたことにより、全体的にコネでバランスが取られてきたものが、歪み始めてきたと考えるのである。いくつか、ぱっと思いつく例を挙げて見る。

<プロポーザル>
 行政が外注者を選択する際の仕組み。受注希望者が提案(プロポーザル)し、それを審査で選択するわけだ。それまでは随意契約(ある理由のもとに受注者を行政判断で指定する)でなされてきたものがプロポーザルに転換しているケース。「公正」ということでは間違いが少ないだろうが、実際の事業のためになるかどうかは別問題であり、実際マイナスになることもある。何故、マイナスになるのか。審査員の質と責任意識の問題や、事業の特質や目的を関係者で十分共有できていないこと、などがあげられる。それまで行なわれてきた随意契約の意義や蓄積されてきたものを軽んじているケースもある。

<リストラ>
 バブル崩壊以降であろうか。「リストラ」というカタカナ言葉は、それまで使っていた「首切り」という言葉を和らげ、企業が経営していく際に公然と行使できる方法と化したように思う。しかし、これはどうだろうか。戦後、終身雇用の形態だったからこそ、企業のために尽くし頑張る事がされてきたのではないだろうか。企業と家族を守るため、ありとあらゆる努力と工夫をしてきたのではないだろうか。もちろん、こうした守りの姿勢は弊害も生み出すだろうが、その害を取り除かない限り未来はないことを認識し、自浄作用がなされてきたところが強く確実に成長してきたと思う。無い物ねだりをせず、自己研鑽、人材育成を行なっていたのである。
 欧米における「リストラ」は、人材が再配置される器があったからこそ成立するのではないだろうか。日本にこの器は乏しく、ただただ人材は切り捨てられるようになり、企業の幹を構築するシステムが動かなくなってしまったと思う。
 日本と欧米の大学の違いもこれらに大きく関係していると思う。日本は企業が人を育成し、その繰り返しで企業の幹をつくってきたと思う。そういうところが世界の中での強みであったと思う。別に例えるならばサッカーや野球のチームだ。お金でスターを揃えてもチームワークがなければ勝てない。スターはいなくてもチームワークで勝つ事ができるのが日本の強みだったと思うのだ。
 日本は「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」とか「鳴くまで待とうホトトギス」だったのだ。それがいつからか「鳴かぬなら殺してしまえ」まではいかなくても、それに近いところになってしまった感がある。

<グローバル化>
 使えるものは地球の裏側からでも燃料を使って取り寄せる。コストダウンに繋がるのであれば地球上のどこの地域の人でも使っていく。おかげで私たちは安くて品質の良い衣料を買え、1年中多種多様な物を食べることができる。そう、おかげさまで国内でつくった蜂蜜よりも中国でつくった蜂蜜のほうがとても安いので食べてしまう。しかも国内のものは実際「高い」と感じるほど国内は不景気なのである。地産地消とその正反対が共存している。
 なんだか違和感でいっぱいである。国内でつくらないから雇用が減る
。雇用が減るから収入が減る。減った収入で安い海外でつくられたものを買う。このからくりのこの負担はどこに行っているのだろうか。海外からものを運ぶために使用するエネルギーの排出する温暖化ガスで自然に負担をかけているのだろうか。それとも日本国内では考えられないような低賃金労働者に負担をかけているのだろうか。いや、もっと先にもっと負担のかかったものとして見えてくることがあるのかもしれない。それは日本人のものつくりに対する能力の低下である。本来負担をかけなければならない脳に負担をかけず、スカスカにするのである。つまり日本人は考えずにやせ細っていくのである。何と言えばいいだろうか。野原に時間をかけて少しずつそこに合った家を建てるということを忘れ、グローバル化だからと世界じゅうの良いと思われるものを集めて短時間で豪華なものをつくってしまうということだ。「何で、それが悪いのか。こんなに短時間で快適になったじゃないか」と反論が沢山くるだろう。うまくはいえないが、地道にやってきたところには地道にやってきたものにしかわかることのできないノウハウと力が蓄積されるように思う。短時間でカスタマイズする能力は日本に蓄積されたのだろう。しかし、その能力は短時間だけあって、他の国でも本気になれば模できるものであったのだ。これを現しているのが今日の日本であり、原発の安全神話ではないが、「技術の日本」というのも神話に成り下がってきている状況を自覚しなければならないのではないだろう。
 世界はお互いに共存しなければならないのは言うまでもない。共存のためにはお互いの長所短所を補完し合うようでなければならない。自由だからグローバルだからとやっていればどうなるだろうか。一時成功した国は繁栄し、失敗した国は没落する。その先にあるものは醜い戦いであることは間違いないだろう。
 国際社会がグローバル化のもと競争を進めたらどうなるだろうか。どこの国だって自分たちの暮らしを豊にしたいと願うだろう。競争には必ず勝者と敗者があるのである。国際社会において勝者も敗者もあってはならないはずだ。欧米諸国が「基本的人権」を掲げるならば、まず世界においてこれを確保することが最優先であり、利益を追求するのもいい加減にしなくてはならない。
 なんだかコネとは関係ない話しになってしまった。そう。グローバル化するならコネもグローバル化し、世界のバランスをとるような調整機能をもつコネを強化してほしいものだと思う。







 まあ、ともかく日本はコネの上に成り立ってきた。そのコネの実態、メリット、デメリットをしっかり認識しないまま、欧米の合理的なものを一部だけ中途半端に取り入れた。ある部分は合理的な競争原理があるのにある部分は従来のコネが維持されているという歪(いびつ)な構造になっていると思う。しかも、その歪な構造を悪用して高収入を得ている醜い人々が存在するのである。

 大切なことはコネの認識であり、コネをどのように扱っていくか、ということである。頭ごなしにコネを否定していては、コネはいつまでも水面下で行なわれる。そうした表と裏のある社会は民主主義の仮面を被っているにすぎず、真面目な人々が不利益を被る社会でしかない。コネをなくすということは従来コネで行なわれてきたことを補完する仕組みがなければならないのである。ここのところの認識がいい加減なのでコネは消えず、新たに取り入れられた仕組みもより良く改善されないのである。もちろんコネの重要な部分も認識し大切にしていかなくてはならないと思う。

 そして、報道の責任は重大だ。今回のような臭い部分を追求しない、見せない、そんな報道は日本人の民主主義の思考回路を混乱させ、回路の向上を阻害する。もっとも、昨今の日本の政治とマスコミの報道の悲惨なあり方、ネットの普及などから、「マスコミを批判する」日本人の総体的な力は少しずつ付いてきているかもしれない。であれば、思考回路は良い方向に進んでいるともいえるだろう。いずれにせよ、マスコミはあくまでマスコミであることを認識すべきだ。彼らは食べていくために彼らのコネを武器に権力(お金)にしがみつく。マスコミは第4の権力と言われているが、他の3つの権力(立法、行政、司法)と合わせて、これらの権力を制御しなければならないのは主権である国民であり、それは国民一人一人の責任と能力にかかっているのである。この一人一人の主権たる力を維持、向上するために国民自らのメディアを整えておくことが大変重要である。このメディアとは物理的な媒体だけでなくヒューマンネットワークもある。

 コネから主権者の話に行きついた。いずれにせよ、最後は何事にも自分の視点、自分の考え、自分の言葉が社会から問われるのだ。他者から聞かれた時「Aさんが言っていたので」では主権者としての説明になっていないのである。それなら「私にはわからない」でなくてはならない。それは主権者ではないのか。このように考えてきたら、「はて」と思う。何かの総会に参加できない時「委任状」を出して決定事項をAさんに任せるというものがある。これもコネの一種だろう。何故ならAさんに任せたのはAさんの価値観を信じたからだからだ。こういうケースの場合、
「あなたはどう考えた」と聞かれたら「Aさんに任せた」となるかもしれないが、それではいけない。総会は終わっていても総会後に問われれば自分なりの考えを述べなければならないだろう。ここまできて思う。そもそも「委任」とは何なのだろうか。役所の手続きについて委任するというのはわかる。やるべきことが明確だからだ。しかし、総会の議決に関して委任するとはどういうことか。総会の内容によるのではないだろうか。どちらに転んでも自分が賛同できるケースならいいのだろうが、任せたAさんが万一にも自分の考えとは違う決断をするかもしれないのである。

 民主主義をまともにやろうとしたら体がいくつあっても足りないことがわかってきた。この足りな部分を補うのがコネだと思う。だからこそ、コネについてしっかり認識するべきだしコネの存在について隠してはならないと思う。相変わらずあたり前のことを自問自答したのかもしれない。

<雑感>人と自然とストレスと社会と

現在社会で人のストレスが増している事は様々なところで目にします。ストレスにより肉体や精神に異常をきたします。このストレスの要因も様々です。複雑化する仕事、核家族による孤独、コンピュータの介在するコミュニケーションなど、あげればきりがないでしょう。

最近、私はふと思いました。孤独で寂しい時やつらい時、遠くや山を見たり、道ばたの花々をながめたり、木々の鳥のさえずりを聞いたり。そう、私はこうして癒されているのだと。

自然が大切なことはあたりまえすぎますね。しかし、人はこのあたりまえすぎることをいつも常に何度でも繰り返し思い考えなければならないのだと、当たり前の中であえて思うのです。

そう、人間だって自然の一部です。何故人間なんてできたのでしょう。不思議です。「進化の過程でできてきたんだ」と理屈はそういうことなのでしょう。それにしても他の生物に比較し圧倒的に違うことが私は次にあると思います。それは「人間には考えることで自然の未来を変える力がある」です。なんとおこがましいことでしょう。しかし、原発事故で既に実証済でしょう。また、クローン技術による生物のコピーも未来を変えることになっていると思います。

こうした人間の行動さえも「自然」であると考えれば「自然」なのでしょう。そうであれば、人間は自らを考える力で変えうることのできる生物とでもいうのでしょう。「他の生物と圧倒的に違う」というところでは間違いないと思います。まあ、だからといって他の生物に「考えることで自分を変える力」が無いかといえば、それは言い切れないとも思います。


都会。空は少しずつ狭くなり、爽やかな風は少しずつ失われます。思い通りに進んでいる時には気に止めることもないのでしょうが、そういう時が続くことはないし、皆がそういう状態であることもないでしょう。それこそ生まれた時から何かに支えられ何かを支え生きているのが人間だと何かを失って初めて心から気付くのだと思います。そして、その支え合いにあるのは「人」だけではないのだと思うのです。地球に生物が住み始めてから存在する「自然」が言葉はしゃべらなくても人を支えてきたと思うのです。

昨今の社会問題、その根幹は「人間と自然の関係」にあるのではないでしょうか。その自然とどう向き合って社会を都市をつくるのか、それは常に問われている課題であり、人間はそれをないがしろにしてはならないのだと思います。




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